4拍子_4の繰り返し

五感って、感覚が5個ってわけでもない

ゲーテの目

ゲーテは目の人だった、

と、なにかで読んだことがあります。なにだったかよくおぼえていないのですが・・それはどういう意味だったのだろうか、とときどきふっと思い出します。

よく、現代は視覚情報が溢れていて、人間の感覚も視覚過多だ、というようなことを耳にします。あと、視覚優位か、聴覚優位か、とか。現代人が視覚の情報過多、というのはそのとおりだと思うし、視覚に対峙させるのが聴覚、というのもわかる。でも、自分はどうなんだろう、ということでこれを考えてみると、私はどうも、ひねくれててもうしわけないけど、どう考えてみても、嗅覚が一番なような気がします。それは個人的に、私という個体の特性として。

そして、さらにいうなら、そもそも、私は五感、というのに違和感があります。感覚って5個なのか?そもそも数えられるのか?

五感とはなにか

五感というのは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の5っつの感覚のことで、これは、それぞれ対応する感覚器官があります。つまり、目、耳、舌、鼻、皮膚。わかりやすく、単線で結ばれた感覚器官と感覚ですね。(皮膚はちょっとわかりにくいけど)

Wikipediaによると、感覚器官はもっと多岐に分かれている、のだとか。冷覚、と、温覚、平衡覚や 運動感覚、内臓感覚、特定の感覚器官が在るわけではないけれども、人体というのはいろんな信号をキャッチしているらしい。

私が実感からかんじとる感覚と、感覚を五感と称することとの間にある違和感。それは、その感覚の多岐に分枝していく感じ、のイメージ図。 そのイメージ図が間違ってはいないのだけど、私には樹状に別れた感覚があるというよりも、グラデーションに近い感じがするから、それゆえの違和感だと思います。きっともっとニッチな感覚もあると思うし、職業柄必要な特殊な感覚や、障害によって出来た分断を別の感覚が結ぶというような、どこか別のところに特別な感覚のラインが育成されることだってあるはずだと思うのです。

様々な感覚器官、(そう、Wikipediaを読んだ今、もう5個とはいえない)という発想は、人体を外からみている感じ、といえばいいのかな。私、という一人の人間が体験している感覚・内側から外へ向かって感覚というものを捉えてみると、その景色はずいぶん違って見えるのではないかしら。「私」からしてみたら身体という物質も外部で、その外部のパーツごとに世界を捉えているわけではなくて、私というターミナルはもっと曖昧ででも全体性がおぼろげにもあって深いものだという気がしてなりません。感覚というものの本質はそちらにあるのではないでしょうか。

人の内側から感覚を眺めてみる

さっき、私は、自分が嗅覚優位な人間、というのに似たようなことを書きましたが、実際には、ちょっと言ってる意味が違っているかもです。嗅覚に他の感覚も混ぜ合わせてしまう人、が私、であるような気がします。嗅覚という単線の橋があるのではなく、そこにいろんな感覚も混ざり合ってる。それは。視覚でも聴覚でもおなじ。考えてみれば、人はそうやって外界を意識的無意識的に脳内に取り込んで、トータルな世界像を作っている。のだと思います。

そして、かのゲーテが目の人だった、というのは、
人の様々な感覚を目に集約して集中的にみることができる人、だったのではないか、そんな気がしてきました。

そして、新たに私、一つの疑問が今湧いてきました。

人が感じる時間、これって、いったいどこで感じてるんだろう?・・・・

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