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天王山は天王山じゃないよという話

「今日の会議が天王山だ。気合い入れていくぞ!」
「あの課長、天王山って何ですか?」
「知らないのか? 勝負所って意味だ」
「なんで天王山が勝負所になるんです?」

明智光秀 vs 羽柴秀吉

課長に代わってご説明しましょう。

天王山は、京都南部、大阪府との県境(府境?)付近にある標高270メートルの山です。

1582年、本能寺の変で織田信長を討った明智光秀と、信長の仇を討つべく駆け付けた羽柴秀吉が、この山の付近で激突します。
これが「山崎の戦い」ですが、この時

「要衝である天王山を巡って激しい争いが起き、これを制した羽柴秀吉が勝利した」

ということから、重要な勝負所という意味で使われるようになりました。

じつは天王山を巡って争っていない

が、この天王山争奪戦は軍記物語(つまり創作)にのみ登場する記述。実際には天王山は激戦どころか、戦場になることすらありませんでした。

天王山のふもとには羽柴秀吉の本陣が置かれており、戦闘は天王山の少し東、小泉川を挟んで行われました。
ざっくりこんな位置関係です。

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光秀軍は秀吉軍に数で劣っていました。
このため、光秀は天王山と沼地の間という狭い戦場で迎え撃つことで、秀吉が数の優位を発揮できないようにと考えたのです。
途中までその作戦はうまく行っていましたが、最終的に押し切られてしまったのは周知の通りです。

それでもやっぱり天王山

このように、天王山は勝負所ではありませんでした。
しかし「天王山」という成句は未だに使われています。

理由はいろいろ考えられますが、「天王山」という名前がなんだかかっこいいというのも挙げられるでしょう。

これがたとえば同じく京都と大阪の境にある標高678.7mの山「ポンポン山」であれば、ここまで「勝負所」として広まることはあったでしょうか。
あるいは、最初から勝負所として創作されることはなかったかもしれません。

いずれにせよ、「天王山」という成句を聞いた時に

「あーはいはい、勝負所ね。でもあれ、史実準拠じゃないんだよな。面倒くさい人だと思われたら嫌だから、敢えて指摘はしないけど」

と思ってくれる仲間が一人でも増えることを願っています。

追記)天王山はこうして広まった?

山崎の戦いの後、勝利した羽柴秀吉は天王山に城を築き、後に大坂城に移るまでの拠点としていました。つまり

山崎の戦いに勝利した後、天王山を拠点にした

のです。

そしてこの情報を、戦国末期から江戸初期にかけて活躍した小瀬 甫庵(おぜ  ほあん)という人物が聞きつけます。
彼は織田信長や豊臣秀吉の事績を書き記した数々の著作を残しており、どれもベストセラーとなっています。

そして甫庵作品がベストセラーになった理由。
それは、甫庵先生が面白さのためなら史実なんか平気で無視。おもしろエピソードをガンガン創作し、作品にぶっこんでいたからなのです。

たとえば「長篠の戦い」で信長が採ったとされる鉄砲三段撃ち戦法。あれも甫庵先生による創作であることが分かっています。

つまり甫庵先生は

「勝利した秀吉が天王山に城を築いた。ふーん。面白味が足りないな。そうだ、天王山を巡って激戦が繰り広げられた。これを制した秀吉が戦に勝った。うん、これで行こう!」

ってな具合に

天王山を取ったから、山崎の戦いに勝利した

という順序が逆になった逸話を作品に盛り込み、それがベストセラーになったことで「天王山」の成句も広まった……ものと考えられます。

歴史エンタメ小説家・小瀬甫庵

ちなみに甫庵先生に関しては同時代人から

「あいつが書いてるのは創作ばっかで、事実と言えるのは3分の1くらい」

と評されています。

対する甫庵先生は「史実に忠実に」書かれた作品を

「おもしろくない」

と評しており、これは良し悪しというより「歴史家」か「歴史小説家」かという、スタンスの違いに拠るものなのでしょう。

そして実際にベストセラーになったのは甫庵先生の作品群。
この辺りの事情は、現代とあんまり変わらないみたいです。

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