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いつか僕がいなくなったら

「人は死ぬさ 必ず死ぬ いつか君も 俺も死ぬんだ」
ちびっ子が見る仮面ライダーの主題歌でも、歌われている。

人に限らず、この世の万物はみな死んでしまうというのを、人間は必ず知っている。それは自然の摂理として至極当然で、不思議なことでもない。

でもやっぱり辛いし、怖い。
身近な存在になればなるほど、その思いは強くなる。蚊やゴキブリにも命があるのにそれを容易く殺せてしまうのは直接の繋がりがないからだろう。人で考えると「自分が知っているか、知らないか」という観点は思った以上に大きく、例えば知らない芸能人の訃報と見たことのある芸能人の訃報とでは、多少なりとも感じ方が異なってくる。さらにそれが親戚や友人、いっしょに暮らした家族、と近づくにつれ、失ったときの悲しみはより大きくなっていく。

こうしてできる「悲しみピラミッド」の頂点にいるのが、自分だ。1度きりの死は、自分においてしか実感できない。それが永遠の夢なのか、何もない真っ暗な世界なのか、起こってみないとわからないので怖い。
加えてその死が無限に続くことが、恐ろしさに拍車をかけている。生きている間に何かを無限に続けることはできないけれど、ひとたび死んでしまうとそこから永遠に「無」が続くことになる。
いつ死ぬかも、僕たちは調節することができない。医療の進歩で「余命○年です」といった推測ができるようになったとはいえ、今も不幸な事故で一瞬にして命を奪われる人がいる。結局はそこにいるかいないかの確率の問題だから、亡くなった人を悼む心の片隅で、自分や家族や友人がその場に居合わせていなくてよかったと利己的な判断をする。


それが全てわかりきった上で今を全力で生きようとするのが、紛れもない僕たち人間であるといえる。与えられた残り少ない時間をどう生きるべきか、迷ったときには誰かの思いを見聞きして、自分もそうありたいと願う。

最近聴いて感銘を受けた曲が、藤井風さんの「満ちてゆく」だ。インタビューで明かした「人生初のラブソング」とのコメント通り、愛の本質とその重要性を感じさせる歌詞になっている。これはあくまで僕の感覚だが、お互いに限られている時間を育むからこそ、人との愛によって人生をより価値あるものにできるというメッセージが込められているのではないだろうか。

「満ちてゆく」に限らず、風さんの曲には広く人類愛に似たものを感じることがある。生きとし生けるもの全てに捧げる応援歌のような、達観した感性は、彼がインドで余生を過ごしたいと明言している (と噂で聞いただけだが) こととも繋がっているように思う。

「愛」について深く考えないまま過ごしてきた僕にも歌詞が響いたのは、当たり前に与えられてきた家族愛に気づくことができたからだろうか。産み育てる者にしかわからない無償の愛を、僕も知ることができたなら、人生はより豊かになるのかもしれない。


とはいえ愛だけが全てとも思わない。
僕は人生を悔いなく終えるために、やれることは全部やろう、全部残そうと思っている。
日記が増えたこのnoteも、僕の人生を示す (文字通り) ノートになってきている。これからもやりたいことをできるときになんでもやっていくし、発信していく。ノンジャンルと決めてむしろよかったと、今更思う。

そして僕がいつかいなくなったら、身近な人にはこのnoteを読んでほしい。できれば全部と言いたいけれど、「ほぼ日記」のマガジンのものだけでも、まあいい。そこには僕の等身大の思いが綴られていて、きっと僕を思い出す。そうして物思いに耽って、泣いてくれたりなんかしたら、こちらとしては報われたと言ってもいいのかもしれない。

何者かによって削除されない限り、このアカウントはずっと残り続ける。「うつろの雑談部屋」を見れば、僕を知らない未来の人にも自分を知ってもらえる。デジタルタトゥーだなんだとうるさい時代になったけど、自分を発信することは未来に自分の足跡を残せる点で素晴らしいことだと僕は思う。これだけ書いていたらきっと、何かしらのソフトを使って「うつろ」という人間像がくっきり浮かび上がる未来も訪れそうだ。


今日もこうして記事を書いた。
明日もまた、記事を書く。
毎日は続く。

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