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引き算の美学

刻一刻と更新される大量の情報をたえず処理し、常に「現在いま」についていかなければならない現代。それに疲れてしまったからかわからないが、最近引き算の美学がわかるようになってきた。
趣味や私生活くらいは、最低限の情報で済ませられると楽しい気がしている。


まず思いつくのが音楽。将来的には作る側に回ってみたいという漠然とした野望があるので、なんとなくではなく何が好きなのか、少しは考えるようにしている。
僕が引き算の美学を見たアーティストとしてあげたいのが、星野源さんとヨルシカさんだ。

「生命体」は、昨年の世界陸上、そしてアジア大会のテーマソングとなり、紅白歌合戦でも歌唱された楽曲。活力のあるリズムとメロディーが勇気を奮い立たせる一曲だが、大きな特徴として「ギターが使われていない」ことがある。知らなかった方も多いのではないだろうか。実際僕も、源さんのラジオでその旨を耳にするまではなんの違和感もなく聴いていた。
ギター、ベース、ドラム、ボーカル。この4つがバンドの基本単位だと思っていた自分としては、楽器を一つ欠かしても違和感なく曲が聴けることが衝撃的だった。と同時に、ギターをあえて除くという引き算の美学に源さん自身が至っているように感じる。
星野源さんといえば、「不思議」や「喜劇」に代表されるように、あえて音を多用しない時間を作ることで静と動を効果的に使い分けている印象がある。「生命体」ではそれとはまた異なるベクトル、「楽器を多用しない」という戦略で、私たちに刺激的な音楽を届けてくれたのかもしれない。

もう一つ、楽曲に潜む引き算に気づいたのが、ヨルシカさんの「晴る」。今年1月から放送を開始した「葬送のフリーレン」第2シーズンのオープニングテーマとして聴いたことがある方もいるかもしれない。
特徴的なのがサビ途中、伴奏が一時的にほとんど止む瞬間。緊張感が高まると同時に、そこから一気に勢いが増していくような感覚があってクセになる。しかも最後の最後にはsuisさんのアカペラが聴けるという贅沢な楽曲になっている。

伴奏を一時的に止めること自体は「春泥棒」や「チノカテ」にも見られるヨルシカさんらしいおしゃれな作風だ。ただこの楽曲を他と決定的に分けるのは、Bメロを取り去っているところだ。かなり挑戦的に思えるが、かえって歌のもつ力強さがよりダイレクトに伝わってくるようにも感じる。
ヨルシカさんの世界に響く音のない時間に、これからも浸っていきたい。


引き算は受動的にのみ感じるものでもない。自分が作る側に回ったときも、引き算の重要性を実感することがあった。最終目標にしている小説の制作が、その顕著な例と言っていい。

「今年は小説やエッセイをしっかり書きます」その宣言通り、今年に入ってから精力的にエッセイを書き始めた。小説はまだ書けていないが、自分の経験や身の上を盛り込めるエッセイの方が手が出しやすいので、今はそちらに執心している。

この前の金曜日、久々に書いたエッセイでは情報の引き算に焦点を当てた。無駄な情報があると話が本筋から離れてしまい読みづらい、そして何よりモヤモヤが残ってしまうだろうという想像からである。小説やエッセイを1つの文学であるとするなら、そこには過不足があってはいけないはずだ。

このnoteに初めて自作の小説を書いたとき、自分で決めた規定字数のことばかり気になり、不必要な情報を付加したり話を引き伸ばしたりと、無駄な足掻きをしてしまった。実際はむしろその逆で、あふれる想像力から生まれた脳内世界の事象を切り取って紙におこすのが小説なのではないか、と考えるようになった。情報を引き算して、必要な話題だけを提供するのが、小説の持つべき形であるように感じる。

とすれば僕に必要なのは自分の空想世界を作り出すことだ。それがないと物語が始まらない。始めるために今日も一人、外界と触れて思考し続けたい。
小説、今年じゅうに書けるようになるだろうか。


私生活でも引き算で生きていたい。
仕事や公の場では情報を正確に、丁寧に伝えることが大事だろうけれど、プライベートな場では少しくらい情報を省略して、暗黙の了解で行動していたい。
肉親にそれを求めるのは、やはり出過ぎた理想だろうか。今年はその素養のある人と、新たに出会うことができるだろうか。

とうぶんは引き算の美しさから離れられそうにない。


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