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『感傷よりも青い月』4

夜になるのが、随分と早い。この辺りは山の麓であるが故に、付近の日の入はかなり前倒しとなるのだろう。近くに街灯などもなく、樹々のざわめきがよく聞こえるのは、土地が眠っている証拠でもあった。

林の奥ではどす黒い夜が降りている。客間のささやかな明かりだけが、バルコニーを薄暗く中和する。煙草を吸い終わると席を立ち、バルコニーの窓を開ける。そのまま客間に入る。客間から廊下に出た。自分達のためだろう。どこも照明が付いたままだった。

一階の居間に向かう。急遽、堤達の夕食も用意してくれることになったのだ。廊下の途中には、上への階段が続いている。照明が灯るなかで、そこだけが仄暗い。横まで来る。何気なく、上階に眼をやった。

眼は釘付けになる。階段の中途には、明かり採りの窓が掛けられていて、そこで階段も曲がっている。窓を見ながら、独り少女が立っていた。彼女が綾子だろう。とても幼く見えるが、実際には、十八歳の女性である。身体に纏う純白のワンピースが、神秘的に光を反射している。

堤は声が出なかった。後ろ姿が美しかったからかもしれない。光を吸収するように波打つ赤い髪は、背中にまで伸びている。階段には無限の距離があるような気がした。あまりに遠く、届かないと思った。無闇な空想が、胸の内を傷つける。

綾子は動き、上階に消える。長い髪が横顔を隠していた。無性に後を追いたくなるが、思い留まった。明かり採りの窓からは、無限の距離にも比例する月が、小さく覗いていた。


夕食は酒宴のようなものだった。出てくる料理は、どれも堤の好みに合っているものばかりだし、ついでに美味しい日本酒も御馳走になれる。京介は恨めしそうに、酒を見ていた。車で来ているからだろう。酒を遠慮している。

「酒は好みじゃないかい」籐次郎は酒を呑まない京介を気に掛けたのか、声を掛ける。

「車なもので」京介は、申し訳なさそうに頭を掻いた。

「ならば、問題がない。泊まっていけばいい。ああ……それとも、今日中に帰られる予定でしたか」籐次郎は、既に大分と酒が入っている。呂律も怪しく、堤達に宿泊を勧めた。

「いや、ええ?」京介は判断を仰ぐように、堤を見る。泊めてもらえるのは好都合だった。

「別に、明日中に帰ればいいんだし、ありがたく泊まらせてもらおうよ」

「では、ご厚意に甘んじます」どこか気恥ずかしそうだったが、眼は酒に向いている。

「ええ、遠慮せずに呑みなさい」そうして、籐次郎は京介に呑ませにかかった。

乾は家政婦としての仕事を全うしている。来客があるだけ、仕事も増えるのだろう。てきぱきと動き回っている。折を見て、三階にも行っているようだ。綾子の夕食も用意しているのだから、大変である。籐次郎と京介は酒も進み、教職についての話しなどで盛り上がっていた。堤は煙草を吸ってくると言って、席を立つ。二人にはしかし、聞こえていないようだった。


昼間のことを思い出す。彼女とまた、話しをしよう。二階に上がると、食器を持った乾が三階から降りてくるところだった。彼女は驚いたように声を上げる。

「もうお休みになられるんですか?」

「そういうわけでは……このままじゃあ、酔い潰れてしまうんで」ポケットから煙草を取り出し、乾に見せた。

「ああ……いつでも、お休みになりたい時に言ってください。今日は、私も泊まり込みですから」乾は当然のように言った。表情を窺う。疲労の色は見えなかった。感付かせないようにしているのだろうか。

「もしかして、僕らが泊まることになったから?」まさかと思い、堤は聞いた。

「いいえ、前から先生にも、今日は宿泊するように言われていましたから。最初から泊まっていただくつもりだったんじゃないかしら」一応、街のホテルに予約を取ってある。図々しい言い分だが、キャンセル料金を払うのが、勿体ない気がする。

「夕食の準備や、部屋の用意までしてもらって申し訳ないです」労わなければ嘘だろう。

「全然、楽なものですよ。食材は配達してもらえますし、客室も使ってないからか、綺麗なままです」乾はなんでもないように笑う。

「でも、料理は美味しかったですよ」

「ありがとうございます。ですけど、あれだって本当に簡単なものばかりですよ。絶望的に調理器具が揃っていないんです。食材も切ってあるものを買わなくちゃいけない。野菜だって、新鮮なものを頼みたいのに……」これが本当の台所事情だと言わんばかりにまくし立てる。料理の腕を揮えないことには、不満があるようだった。堤は苦笑する。

「またいつか、腕を揮ってください」

「ええ、もちろんですよ。覚悟しておいてください。……私は家政婦になってから、覚えた苦痛があるんです。判りますか」彼女はわざとらしく顔を顰めると、楽しそうに言った。

「自己の能力を発揮できないこと?」

「いいえ、なにもできない時間はなにもしない時間よりも、ずっと言い訳がましくてもどかしいってことです。私自身には非がなくとも、なんとなく拠り所のない気分にさせられます。判りますか?」

「ええ、もちろん」今度は、彼女の眼を見る。乾はにっこりと微笑んだ。

「嬉しいです。では、ごゆっくり」

仕事熱心な家政婦は、満足気に階段を降りる。一日の間にとても気安くなった心地がする。なんとなく幸福な気分に包まれていた。なんて単純で安直なことだろう。けれども、単純で安直なことこそが、この場に限っては一服の清涼剤となる。

堤は腕時計を見た。時刻は二十時を回ろうとしていた。

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