TVアニメ『デカダンス』 感想と最終話の考察 ー現実的な結末ー

 TVアニメ『デカダンス』を最後までみたので、感想と軽く考察を書いていこうと思う。全体を通して、とくにだれることもなく面白かったので、視聴して損はないと思う(作品に対して面白いか面白くないかで価値判断をするのは変であるが)。個人的には作品そのものの考察や現代社会との関連性を想像するのが特に楽しかった。

 本投稿は1.が感想、2.が軽い考察というより、ひとつのあり得る解釈である。最終話のその後についてはほとんど説明されなかったので、ほぼ想像であり、ご高説を宣ろうとしているわけではないことに注意してもらいたい。とは言っても、2.がだいぶ穿った見方をしているので、最終話の爽快感を大切にしたいのであれば、まわれ右をお勧めする。ネタバレを気にする方も作品を先に見てくることをお勧めする。

 念のため注意しておくと、ソリッドクエイク社とは作品中においてデカダンスを運営する企業である。また、『』つきのデカダンスはアニメ作品としてのデカダンス、括弧なしのデカダンスは作品中のエンターテインメントとしてのデカダンスを意味する。


1.システムの管理から逃れられない

 作品世界のゲーム、デカダンスはガドルとの命のやりとりを通して本物の死≪刺激≫を楽しむエンターテインメントから、人間やガドルとの触れ合いを通して本物の刺激≪冒険≫を楽しむ、いわばどうぶつ森的エンターテインメントへと変貌することで、『デカダンス』という物語は結末を迎えた。一見すると、人間たちもサイボーグたちもハッピーな大円団の結末であるように見える。だが、この結末を見てこう感じた人もいるのではないだろうか。
 最終回以後の作品世界の地球も依然デカダンスドームの内部を除いて人が住める環境ではなく、世界はやはり少数の巨大企業によって寡頭的支配のもとにあり、しかもシステムをより強固なものにするためという理由でバグはシステムの計算のうちであり、この騒動も結局システムを強固にする礎であるならば、人間はシステムから解放されてないのではないか?
 私もそう感じた人のうちの一人である。

 新生デカダンス下であってもおそらく生きているという実感を得ることは難しいのではないだろうか。なぜならば、生きている実感とは予測不可能で少なくともそこに暮らす人々が自由を感じているときにのみ実感されるものであり(※1)、何かによって制御されている/抑圧されていると感じる体制下で生を感じるのは難しいからである。ここでは長々とこのことを説明することはせずに、フランスの哲学者、というよりも見神家のバタイユの言葉を引用することでその説明に替えよう。

生きることは、狂ったように、だが永遠に、サイコロを投げることだ。それは、恩寵状態を肯定することであり、起こりうる結果を気遣うことではない。 結果を心配し始めると、貪欲と不安が生まれ始める。後者は前者から生じるのであり、不安は、好運がもたらす震えである。しばしば不安は、生じようとする貪欲を、不安という極めつきの倒錯に巻き込み、その貪欲を罰するのだ。(p150)

出典
ジョルジュ・バタイユ『有罪者: 無神学大全』  江澤健一郎訳 (河出文庫)



 生のためには、カブラギたちはラスボスガドルもろともシステムを壊してしまうべきであったのだ。

 もっとも、システムを本当に破壊してしまえば、人間たちを汚染された環境から隔離するデカダンスドームを維持できなくなってしまうかもしれないし、仮にドームを維持しつつシステムから至上権を奪って人間による統治を確立できたとしても、『デカダンス』の地球を支配する原理は政治ではなく市場原理であるので(第5.5話で世界が少数の巨大企業によって支配されていることが明かされている)人間たちは他企業との競争に直面しなければならない。企業間競争に人間率いる新生ソリッドクエイク社が負けてしまえば、デカダンスドームは金にならない不要なものとして廃止されてしまうかもしれない。そうなれば、人間たちは絶滅を迎えることになるだろう。
 そういう意味では、システムを破壊(Break)するのではなく、生を窒息させるシステムを弱める(Brake)することで結末を迎えるのは、ストーリーとしては地に足がついた極めて現実的な結末であり、そう言う意味で前向き?ということもできるかもしれない。人間たちに立ちはだかる壁はデカダンスのシステムだけではないのだ。

 とは言っても、生物学的な生を優先してシステムに甘んじ服従するのであれば、やはりそれは生を否定することではないか、という思いも拭えない。生はその極限において死と見分けがつかなくなるべきなのだ(※2)。


※1 もっとも、主体化とは従属化であり、真に自由な主体というのはありえないのだが。

※2 旧デカダンスのキャッチコピー「本物の死≪刺激≫が、ここにある」はこれに意識的であるように思う。もっとも本物は”本物”であって本物ではないのだが。本物を本物たらしめるために、生存条件と一致したシステムを破壊する、いや結果的に破壊してしまうのが、生である(ここで動物的な生と人間的な生を区別して用いていることに注意されたい)。しまうというのは生は目的論では掴めないからである。まったき偶有性のなかでそれは現れる。
 作品中で最も生きていると言えるのは、その時点でシステムに対してやれるだけの反抗をやり切り、ラスボスガドルを倒し散っていく、まさにその瞬間のカブラギではないだろうか。その様は自分勝手であるが、生とはもともとそういうものである。
 


2.なぜラスボスガドル撃破からたった三年で人間たちはガドルとの悲惨な戦いの真実とサイボーグを受け入れたのか

 最終話の最後では新生デカダンス下でサイボーグと人間たちが共存している光景が描かれていた。新生デカダンスは様々な施設を有する複合娯楽施設であり、サイボーグたちは人間たちとお気に入りの農具をカスタマイズして農耕を楽しんだり、無重力スポーツを楽しんだり、安全なかわいいガドルと触れ合ったり、フィールド探索を楽しむことができる。きっとこれは、作品世界でデカダンスの目玉として宣伝されている事柄でもある。
 これを見て、こう感じた人もいるのではないだろうか。
 人間たちの中にはガドルとの戦いの中で親しい人を亡くした人も数多くいるだろう(例えばナツメがそうである)。いままでの戦いが畢竟サイボーグたちの道楽にすぎなかったとわかれば、人間たちは激昂し、普通サイボーグと仲よくしようなどと思わないのではないか?確かに、流れる時が決して癒すべきではない傷を癒すこともあるだろう。それにしたって、ラスボスガドル撃破からたった三年で人間はサイボーグを当たり前のように受け入れるのはなぜか?もっというと、新生デカダンス下でなぜ人間たちはデカダンスという商売の出し物(露悪的な言い方だが)に甘んじているのか?
 少なくとも私なら、人間の生活そのものを商売の道具にしやがって!となり、次のバグになること請け合いである。
 そこで2.では、なぜラスボスガドル撃破からたった三年で人間たちはガドルとの戦いの真実とサイボーグを受け入れたのかについて、ひとつの解釈を与えてみたいと思う。もちろん、『デカダンス』の人間たちが聖人君子……というよりも付和雷同な価値観を持っている可能性を否定するわけではないが、ここではそのような仮説を採用しない。

 さて、本題に入ろう。1.でも述べたことだが、抑圧的なシステムをミナト率いる新システムに更新したところで、ソリッドクエイク社以外の他企業が何か変化を被るわけではない。企業間競争は続いていく。企業である以上なんらかの営利を目的として経済活動を行っているはずであり(ソリッドクエイク社なら開発したデカダンスというエンターテインメントで稼いでいる)、それをおろそかにすれば他企業に敗北し、食われるか消滅していくだけである。
 もし、ソリッドクエイク社が競争に敗北すれば、他企業にソリッドクエイク社が吸収されてしまうかもしれない。他企業が旧デカダンスシステムのように人間に対して抑圧的であるとは限らないが、だからといって人間にとって今よりマシな仕組みを提供してくれるとは限らない。下手をすると旧デカダンスシステムよりも抑圧的で非人間的な仕組みを合理性の名のもとに導入されてしまうかもしれない。それに、ソリッドクエイク社がなくなれば人間たちを汚染物質から保護するドームがどうなるか分からない。金にならなければ、あるいは維持コストがあまりに大きかった場合、ドームが廃止されてしまうかもしれない。したがって、人間たちにはソリッドクエイク社の経済活動に協力する動機が生まれる。

 そう、つまり、ガドルとの戦いがサイボーグの道楽でしかなかったと知った後、人間たちはサイボーグへの悪感情を抑え、人間の将来のために妥協したのではないだろうか。デカダンスというエンターテインメントの商売道具として自らを売る代わりに、自らの保護を約束させたのだ。生きるために……(※3)。この、生きることの売春性という構造はカブラギでも壊せなかった。

 まとめよう。2.の表題に答えるとこうなる。人間たちは過去のガドルとの戦いを忘れたわけでもないし、サイボーグを受け入れたわけでもない。生存のために妥協したのだ。

 最終話の最後で一見、人間とサイボーグは宥和しているように見える。だが、実はその背後には決して消えない歴史と癒せない傷があり、それをめぐって次のバグが生まれ、システムを更新していくのかもしれない。その終わりなき弁証法的運動こそ人間の有様なのだと解釈してもいいかもしれない。



※3 ここに資本主義リアリズムの有名なあの不気味な命題「生きること、その不可避な売春性」がこだまするように思える。そう考えると、作中のセリフ、世界を変えたかったんじゃない、自分を変えたかったんだというセリフが違った意味で聞こえてくる。それは状況をよくするために第一選択肢となるべき社会的解決が機能せず、セルフヘルプによって解決するしかないと思いこまされた者の叫びだったのではないか?資本主義リアリズムといえば、ほとんどの人間が死滅した世界でもなお企業が存在しているという世界観は「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」という言葉を思い起こさせるだろう。また、システムに対する対抗軸がラスボスガドルΩ(それもどちらかと言えばシステムによって生み出された犠牲者と言える)との死闘にずらされて迎える結末は、システムに対する抵抗も結局のところ個人的なものでしかなく、下手をすると犠牲者同士で潰しあうだけであり、抵抗したところで不条理な社会そのものを変えることはできず何もしても無駄だという了解、つまり再帰的無能感を反映しているかのようにも思える。


3.最後に

 いろいろ感想を書いてきたが、ここ最近で一番面白かったアニメ作品であることは最後に述べておきたい。




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