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ロマンティック・セクシュアリティのバリアビリティ

もう聞き飽きたかもしれない、「LGBT」について、不図思ったことがある。今回は、「ロマンティック・セクシュアリティのバリアビリティ」に注目して、つらつらと文章を書いていきたいと思います。

性自認や、ロマンティック、セクシュアリティを巡る流れとしては、前近代的な性別役割分業意識に基づく、生物学的性と社会的性が一致した事態から、個人個人のロマンティック・セクシュアリティの多様性を認めていこうという動きに変わりつつあります。

でも、ここで少し思ったことがあります。また、ここで安易な、鋳型にはめる行動が生じているのではないかと。

女、男、異性愛、同性愛という狭い価値観から、さまざなロマンティック・セクシュアリティの在り方が登場しています。まるで、”無限であるかのように”。

デミロマンティック、アセクシャル、バイセクシャルなどなどですね。しかしこれこそまさに、人間の都合の良い様に、恣意的に人間の、ロマンティック・セクシュアリティの在り方を解釈してしまっているのではないかと思います。

何十億という人間がいて、組み合わせとしては、厖大な数の組み合わせが考えられるはずであるのに、たった数十種の在り方で表現できるのでしょうか。(カテゴライズした方が理解しやすいということは置いといて)

拡がるロマンティック・セクシュアリティの在り方であるはずなのに、どうしてそれを、判断・区別しやすくするという名目において、人間が理解しやすいような、恣意的な区別に当てはめてしまうのでしょう。本当に、それが多様性を認めるということなのでしょうか。

確かに、以前よりも、多様な在り方があるということは認識されているかもしれませんが、何かの鋳型に当てはめてしまうこと自体が、どうにもナンセンスに見えてしまう。

あるカテゴリーに偶然に当てはまっていたり、似ている部分を持ち合わせているだけで、完全に一致することは無いと思いますし、人間それぞれのロマンティック・セクシュアリティが、むしろカテゴライズされることによって、本来の認識から歪んでしまう恐れもあるのではないかとも考えます。

しかしどうでしょう。あるロマンティック・セクシュアリティのカテゴリーに当てはまって初めて、自分のそういった認識が確立するかもしれません。

ロマンティック・セクシュアリティの諸カテゴリーというものは、人間は本来、それぞれの性自認や、ロマンティック・セクシュアリティを持ち合わせているという、一種の偏見やコードに基づいるような、ある意味で非常に偏った考えの一つなのかもしれません。



人間を、型にはめるな


そういうのなら、ロマンティック・セクシュアリティや性自認について、どうして同じことが言えないのでしょうか?

「自分は◯◯愛者である」という鋳型にはめるような行動は、確かに人間が関わっていく中で、そしてお互いを判断する中で、必要な判断材料とも言えます。

しかしながら本当に「多様性」を意味しているのでしょうか・・・?私にはどうも、カテゴリー化することそのものが、「多様性」を嘲笑ってるように見えてしまうのだけれど。




今日も大学生は惟っている。




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