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大学は地

歌詞がメロディーというメディアと合体しているからだ。歌詞がメロディーとまるで最初から一緒であったかのように、接着部分に全くの齟齬が無いかの様に。だからスルりと脳内で再生できる。なるほど知識というのは、重ね合わせることによって、より定着しやすくなるのだなと。そう考えると受験勉強というのは、まったくもって階層性の無い知識の様だったのかもしれない。ただ断片的に知識を覚えるだけで、まぁまぁのとこへ行けてしまうのだから、ワタシのやりかたは薄っぺらいものだったのだと思う。

それに比べると、大学での学びというのは、階層性のある知識を育むことには随分役立ってくれるところだと思う。いや大学生自身がみなそうしているというよりかは、潤沢な時間が、豊かな知識の在り方を可能にしてくれると思うというか。それに加え、新たな視点から物事を見ることを可能にしてくれる。今まで学んできたものが、まったく異なる意味を持ってくる。世界が平面から、幾重もの階層や軸を持つカオスであると知る。拡がるのは世界ではない。世界を認識する視座こそが複雑になり、広がっていく気がするのだね。地と図でいう、「地」の方を、大学生は学ぶことが出来る。もちろんもっと若い時に「地と図」的な知識の構造を学ぶことができるとは思うけれど。

つまり、大学は「地」であり、「メロディー」であり、「背景」なのだ。背景が明らかになることで、「図」がより判明に見えてくる。「地と図」は不可分であって、つながりが強いと「地と図」の構造そのものが、頭に叩き込まれる。春秋戦国時代の商鞅という人物が、法家として自分の意見を持って、広めたことによって、秦という国が戦国七雄の中で唯一統一を成し遂げたことに繋がった、って感じで。「商鞅/法家」という単語ヲ覚えただけでは大した意味がない。換言すれば、大学とは、「構造化」の場だと思う。知識の体系化が起こり(自分で成さねばならないが)、シナプスが繋がっているように、知識の連鎖が起こり始める。関係の無い様に見えるものが、実はその通奏低音としては繋がっていたのだと知る。「関係化」とも言えるかもしれない。類似の構造を知覚するという、当たり前かもしれないが、意識し始めることで見方が変わるそれは、習得するのはきっと大変。ワタシもまだまだ。

地味だけど、結構楽しい。試しに、全く関係の無い本を二冊選んでみる。すると何故か似たような構造を持つものを感じることができる。最初は微妙かもしれないけれど、少しづつ少しづつ、似た構造が見えてくる。呪いと音楽だって、音楽と観光だって、哲学と旅だって、死と言葉だって、欲望と世界だって、どこかに似たものがある。アナロジーの幅は広い方がいい。説明する時にアナロジーを使うことが出来れば、分かり易いと思ってくれる人がいるかもしれない。一時、難しいことを簡単に説明できる人が賢いなんて言われているようなことがあったと思うだけれど、ワタシはなんとなく、似た構造を持つもの瞬時に思いついて説明することが出来る、或いは演繹と帰納を行ったり来たりすることが出来ることが何となく賢いと思う。難しいのだけれど、例えば人文科学の文章を書くことは、料理に似ているみたいなことかな。

もう毎回毎回「僕のヒーローアカデミア」の話しが出てきてしまうだけれど、緑谷出久とオールマイトが「父親殺し」の関係だったり、「ワン・フォー・オール」が贈与論的だったり、緑谷出久の選択がギリシア悲劇のプロメテウスみたいだったりとか。そういう、物語の世界観に即自的になる(ことも大事だけど)ことだけではなくて、対峙的に見てみると、他の事柄とどのような共通点があるのか見えてくることが面白いし、「僕のヒーローアカデミア」について話すときに理解しやすいよね多分。

あ、イッテQでたまに「NARUTO」や「僕のヒーローアカデミア」のBGMとか、仮面ライダーやウルトラマンの効果音が流れる時って、つまりこれを一歩引いて見てみると、特定の作品でしか聞いたことのないBGMを耳にすると、ちょっと違和感がありますよね。あれって、わざわざ買っているんでしょうか。




今日も大学生は惟っている



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