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息子へ紡ぐ物語_【より道‐全集】

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自らのファミリーヒストリーを辿りながら、日本の歴史を記してきた「より道」シリーズ。
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記事一覧

■【より道‐121】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_鹿之助と牛之助

1566年(永禄九年)尼子一族は、尼子経久の孫、尼子晴久の死からわずか五年の月日で滅亡してし…

■【より道‐120】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子氏の滅亡

出雲国の守護代であった、尼子経久は、京極氏の意思を継ぎ、山陰山陽の11ヶ国を制するほどの時…

■【より道‐119】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子晴久という男

尼子経久は、「応仁の乱」という、足利将軍家の因果応報の時代に生まれました。青年期になると…

■【より道‐118】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_塩冶興久という男

いつの頃か、尼子経久の活躍は、西の覇者、大内義興を凌駕するほどになったようです。 その背…

■【より道‐117】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子政久という男

尼子経久が、時代の寵児となっていくのは、三十歳を越えた頃、時代でいうと1486年(文明十八年…

■【より道‐116】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子経久という男

戦国期の西国覇者は、三本の矢で有名な毛利元就です。毛利元就は小さな小さな領地の国人から下…

■【より道‐115】「尼子の落人」と家訓が残るほどの物語_尼子清定という男

わたしは、小さいころから父に、ご先祖さまは「尼子の落人」だということを言われ続けてきました。父の故郷、岡山県新見市高瀬の家屋跡にある旧墓地には、「尼子の落人」のお墓と伝わるものも存在しています。 ただ、そんなことを言われても、歴史のことはよくわからないですし、しかも、織田でも徳川でも武田や上杉でもない尼子と言われてもよくわかりません。正直、昔は、仏門の尼さんのことだと思ったりもしていましたし、素潜り漁をする海さんのことだと思ったりもしていました。 しかし、歳を重ねたいま、

■【より道‐114】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「船岡山合戦」

我が家の「家系図」に、長谷部左衛門尉元秀という、ご先祖さまがいるのですが、その横の注記に…

■【より道-113】随筆_『続パンデミック体験記』(長谷部さかな)

今回の【より道】は、父が2021年10月に書き下ろした、随筆_『パンデミック体験記』の続編を掲…

■【より道‐112】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報「永正の錯乱」

中世・戦国期の時代がややこしいのは、有力大名のお家騒動に加えて、家格が「下の者」が「上の…

■【より道‐111】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_細川政元という…

色んな思惑はあったと思いますが、室町将軍・足利氏のお家騒動、「応仁の乱」が終結すると、幕…

■【より道‐110】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 六角高頼という…

ふと、思うのですが「応仁の乱」にかかわった、八代将軍・足利義政から、十五代将軍・足利義昭…

■【より道‐109】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_ 日野富子という…

平安時代末期に後白河法皇の息子、以仁王が平家討伐を企てると、それを知った検非違使たちが、…

■【より道‐108 】戦乱の世に至るまでの日本史_時代を超えた因果応報_時系列

今回は、あくまで、じぶんのファミリーヒストリーに近しい日本史を、「嘉吉の乱」から「明応の政変」まで整理したものです。 当時の将軍や管領がどのような悩みを抱えていたのか。有力武家たちのお家騒動がどのように発展、展開していったのかが、なんとなくわかるものとなっています。 <<<次回のメール【325日目】:心を整える 前回のメール【324日目】:出ないものは出ない>>>