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■【より道‐25】ノモンハン戦争に至るまで④

現代でも「北方領土問題」について騒がれている様子をみるけど、ニュースをみても、それほど身近に感じていないというのが本音で、心のどこかで他人事に思っている。

それでも自分がなんとなく把握している内容とすると、日本の固有の領土である「歯舞群島はぼまいぐんとう」「色丹島しこたんとう」「国後島くなしりとう」「択捉島えとろふとう」の四島をロシアに不法占領されているから「日ソ・日露間の平和条約」を結んで領土を返してもらおうと歴代の政治家たちが奮闘しているという認識だ。でも今回、ノモンハン戦争が第二次日露戦争だとわかったので「北方領土問題」についても色々検索してみた。

一連の流れを要約すると、明治八年(1875年)にロシアと「樺太千島交換条約からふとちどりこうかんじょうやく」を締結した日本は、樺太からふと全島を放棄する代わりに、千島列島(18島)をロシアから譲り受けることになった。

しかし、明治三十八年(1905年)日露戦争に日本が勝利したことで、ロシアから千鳥列島隣にある樺太の北緯50度の南半分、南樺太を割譲かつじょう。更には明治四十五年(1912年)のシベリア出兵で北樺太を日本が不法占拠した。すなわち、この頃の日本は樺太全島を領土としていた。

そして、第二次世界大戦がはじまると昭和十六年(1941年)に「日ソ中立条約」を結び、日本とソ連はお互いに侵略しないことを約束するが、長崎に原爆が落とされた昭和二十年(1945年)8月9日にソ連が条約を破り対日参戦してきて「ポツダム宣言」受諾後も攻撃を続け、8月28日から9月5日までの間に北方四島を不法占領した。

昭和二十六年(1951年)「サンフランシスコ平和条約」で日本は南樺太と千鳥列島を放棄することになったが、日本固有の領土、北方四島は含まれていない。つまり、日本固有の領土だと連合国に認めてもらったのだが、ややこしいことにソ連は、「サンフランシスコ平和条約」に署名せず、昭和三十一年(1956年)に別途「日ソ共同宣言」を締結したことで、ようやく戦争状態が終結した。

この流れだけ見ると、千鳥列島は18島全てが日本の領土のような気もするけど、世界的にみると未だに植民地化されている島や領土もあるし、つきつめると日本の歴史でも戦に勝った「家」が領地を得てきたワケだから、戦争に負けるということは、こういうことなんだろうな。と改めて思う。

ちなみに、シベリアとは、ロシア(ソ連)全域の呼称で、樺太からふとはサハリンと呼ばれている。あと、近代史でよく名前がでてくるウラジオストクは、日本海に面した韓国の隣にある港街の名前とのことです。



【ノモンハン戦争に至るまで④】
ノモンハン戦争に至るまでの流れを整理するために、日本の仮想敵国であったロシア(ソ連)の歴史についても辿ってみることにした。ロシアの慣れない名前や読み方が学ぶ意欲を阻害するがしかたがない。わかる範囲で概略をまとめてみる。

ロシア(ソ連)は、明治三十八年(1905年)日露戦争で日本に敗戦したので満州権益を断念し南樺太を日本へ割譲するという屈辱を味わった。大正三年(1914年)に勃発した第一次世界大戦では、連合国側として参戦するもドイツ軍に完敗。敗戦が続いたことで大正六年(1917年)にロシア全土で「戦争反対」「専制君主制打倒」のストライキが発生して革命に発展する。このとき、ロシア最長の王朝だったロマノフ王朝が終焉した。「2月革命」だ。

「2月革命」の後、立憲民主党主導の「臨時政府」が政権を担ったが、同年10月に労働者と兵士からなる社会主義勢力「ソビエト」による暴力の革命「10月革命」が起きた。そこから革命を起こした社会主義、共産主義の「赤軍」と自由主義や共和主義、君主主義、保守派などの連合軍「白軍」にわかれ内戦が勃発する。

「赤軍」は人口密集地帯や工業地帯、鉄道などを支配し兵士、装備の輸送を効率的に実施することで影響力を増していった。「赤軍パルチザン」「恐怖政治」「赤色のテロ」「秘密警察チェーカー」「皇帝一族の銃殺」「企業の国有化」「ロシア正教聖職者の殺害」など、おそロシアといわれる所以の武力行為で社会主義体制が急速に構築されていった。

一方、内戦に便乗して欧米列強国や日本は反革命派「白軍」の援助を名目に軍隊を派遣した。いわゆる「ソビエト干渉」だ。ちなみに、このとき日本はアメリカと一緒に軍隊を派遣し北樺太を制圧したのだが、「赤軍」が6000人の在留邦人を惨殺する事件を起こしたため、『事件解決まで駐屯する!』と日本軍はそのまま北樺太を不法占拠した。

内戦が終わると『なんの理由もない駐兵はやめるべき』として撤兵することになったが、それでも、なかなか帰らず大正十四年(1925年)にようやく撤兵。このシベリア出兵は「人命」と「お金」「ソビエト人民の敵意」と「連合国からの不信」だけが残る日本史の外交上、最も失敗した外交と言われている。

内戦を治めたのちに、大正十一年(1922年)に世界初の社会主義国家であり一党独裁支配を国是とするマルクス・レーニン主義のソビエト社会主義共和国連邦が結成された。2年後の大正十三年(1924年)には指導者のレーニンが死亡。後継者として、トップに君臨したのが日本の運命を握るヨセフ・スターリンだった。

スターリンの人間性を象徴する、人々が震撼する行為として印象的なのは、反対派を徹底的に排除する「大粛清」を実施するということだった。当時は多くのロシア人が満州に亡命したらしい。

一方、国外に目を向けると昭和七年(1932年)に満州国が建国されたことにより、日本軍のソ連侵攻が現実的になってきた。日本は、モンゴル人民共和国をソビエト侵攻の戦略的拠点として重要視していたので、ソ連とモンゴルは、日満の脅威に対処するために昭和十一年(1936年)「ソ連・モンゴル相互援助条約」を締結。モンゴルは国境にソ連軍の駐屯を許した。

すると、スターリンは、モンゴル人の指導者の「大粛清」を始める。更には、宗教を認めないソ連は、モンゴル仏教の迫害で1万人を殺戮したそうだ。ドイツのユダヤ人迫害と同じようなコトをやっていたんだなという印象だ。そうしてモンゴルをソビエトの傀儡国にしたのだった。

日本は、武力で制圧する共産勢力がすぐ隣まで迫ってきていたのでかなり恐ろしかっただろうな。それに対抗するため、国民一丸となって戦争に臨んだわけだが、虐殺されるよりはマシだと考えたのだろうか。結果的には、アメリカに原爆を落とされ一瞬で吹き飛ばされた。

そして、ようやくファミリーヒストリーにつながる。昭和十四年(1939年)3月に自分の父が満州国哈爾濱で誕生する。お祖母ちゃんの手紙の内容から推測すると、生後4か月で内地の京都に里帰りして、生後8か月の昭和十四年(1939年)11月に大同に転勤している。

ノモンハン戦争が発生した昭和十四年(1939年)5月〜9月の間は日本国内にいたことになるが、このとき満州国政府で働いていたお祖父ちゃんの興一さんは、どのようなコトを考え、思っていたのだろう。


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