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■【より道‐67】戦乱の世に至るまでの日本史_「観応の擾乱」兄弟ケンカの末路

人の「こころ」の移り変わりというもは、とても理解しにくいものです。足利兄弟も、以前は同じ志をもって、大成を遂げるために、互いの考えをわかりあいながら、支えあってきました。

しかし、立場や環境が変わり、その日常が当たり前になると、人の「こころ」は移り変わってしまう。

養老孟子先生の著書、「バカの壁」からすると、人間は変わることが当たり前とのことです。

人間は変わるけど、情報(言葉)は変わらない。

これが真理なのに、現代の世界は、「あべこべ」の錯覚に陥っている。例えば、政治家がその時々に誠心誠意、公約を語るけれども、発言には、こだわりを持たない。公約したことは状況によって変えてしまうけど、選挙で当選した自分は不変なのだからそれでいいと、平気で公約を破り、うそをつく。

この現象は「人間は変わらないけど、情報が変化する」という、誤った認識を現代人がもっていて、そこには「バカの壁」があるというものでした。

しかし、中世の時代には、その、あたり前が常識的にあった。なので、幼名から元服まで人間が成長して変化するたびに名前を変えるし、「武士に二言はない」というのは、日本人の誇れる人間らしい価値観だったのだと思います。

しかし、人間の身体や知識が変化することは、わかりましたが「こころ」の変化には、どのように順応していけばいいのでしょうか。

そのときの「情報(言葉)」はどのように受け止めればいいのか。足利兄弟の末路を学びながら、現代のじぶんの人生と重ねると、また少し考えてしまいます。


◼️足利尊氏の覚悟
1351年(観応二年)「打出浜の戦」に敗れた足利尊氏は、高師直の助命を条件に、足利直義と和睦しましたが、京への護送中に高師直はじめ、高一族は、殺害されてしまいました。

この、武士に恥ずべく不義に怒りをもった足利尊氏は、京の都へ戻り、弟の足利直義派閥を一掃する動きに取り掛かりました。まずは、高師直を惨殺した上杉能憲よしのりの打首を命じますが、これは、足利直義の懇願により、なんとか流罪に免れます。

しかし、日がたつことに対立は激化していき、ついには、足利直義派閥の強硬派、桃井氏と斎藤氏が襲撃される事件なども起きたそうです。

しまいには、軍まで動かします。足利尊氏派閥の佐々木道誉ささきどうよ赤松則村あかまつのりむらが南朝と通じて離反したことにして、足利尊氏が近江佐々木氏討伐へ、息子の足利義詮よしあきらが播磨の赤松則村討伐へとそれぞれ出兵することにして、東西から、足利直義を挟撃する態勢まで整えました。

すると、挙兵の情報を入手した、足利直義と桃井氏、斯波しば氏、山名氏など一派の武将たちと、自分たちの領地である、北陸や山陰、信濃、鎌倉などに逃亡して一度体制を整えることにしました。足利直義には、九州はじめ西国に、養子の足利直冬が勢力を広げています。

そこで、足利尊氏は、なんと、南朝と手を組み、足利直義と足利直冬討伐の綸旨りんじを要請しました。

南朝方は、北朝にある三種の神器と政権返上を条件に和睦すると、北朝の崇光すこう天皇は、追い出されてしまいます。このときに、亡き後醍醐帝の野望が叶い「正平一統しょうへいいっとう」として、大覚寺統だいかくじとうの皇族、南朝が世を治めることになったのです。

南朝を味方にして兵力を増強した、足利尊氏軍は、足利直義を鎌倉に追いこみ降伏させました。そして、足利直義を、鎌倉の延福寺に幽閉させますが、ある日、急死したと史実に刻まれています。

奇しくも、足利直義が亡くなった日は、高師直の一周忌だったそうです。足利尊氏は、忠臣のために、実の兄弟に手をかけたということになります。

「観応の擾乱」は、天下をわける兄弟ケンカが原因となりましたが、最後は、兄である足利尊氏が、武力をもって終息させたということになります。

まさに、人は変わるが情報(言葉)はかわらない。「武士に二言はない」ということになります。それだけ、言葉は重要だということですね。


この頃のご先祖さまの情報は、残念ながら、「長谷部雅信長門守」という情報しか残っていません。なんとなくではありますが、長谷部氏と山名氏のご先祖様同士は血縁関係にありそうですし、山陰地方は、足利直冬や山名時氏の勢力下にあったので、長門守と称しているのであれば、足利直義派閥だったのではないかと、想像しています。

中世のあの当時、どのような、戦に駆り出され、どのように命を紡いでくれたのか。きっと、ご先祖様たちは、この天下を分ける兄弟ケンカにも巻き込まれたことでしょう。


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