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■【より道‐11】戦国期までの道のり

ファミリーヒストリーを紡ぐなかでは、長谷部家の命運をわける戦国期をなんとか生き延びた長谷部元信について調べる必要がある。

長谷部(長)大蔵左衛門元信(はせべおおくらざえもんもとのぶ)は、長谷部信連の子孫と称し、広島県府中市上下にある翁山城(おきなやま)の城主で国人だったそうだ。長谷部信連ほど伝説が残っているわけではないが調べてみるといくつかの文献や痕跡が残されている。

しかし、長谷部信連の活躍した鎌倉時代1200年頃から、長谷部元信が活躍した戦国中期までには、約350年の月日が経っている。まずは、そこまでの歴史背景を簡単にまとめてみることにした。


【戦国期までの道のり】
1333年鎌倉幕府を滅亡に導いた後醍醐天皇と足利尊氏は、戦後の主権争いで揉めることになる。後醍醐天皇は三種の神器を持ち出し正当な天皇を主張し奈良(南朝)で政治を行う。一方、全国の武士をまとめあげた足利尊氏と光明天皇が京都(北朝)で政治を行い、世は南北朝時代に突入することになる。

1392年。世代交代した3代将軍足利義満は、南北朝の問題を解決するため、交代で天皇を出す約束を交わし三種の神器を取戻した。しかし、義満は約束を破り北朝から天皇を出し続けると、南朝はチカラを失いようやく幕府が安定し室町幕府最盛期を迎えることになる。

足利義満は、明との国交貿易を再開すると財を成し金閣寺をつくった。「猿楽能」を大切にするなど日本文化の礎をつくる。更には、義満の正妻、日野康子を後小松天皇の准母(じゅんぼ:生母ではない天皇の母)にすることに成功すると、武家出身の義満が皇族の仲間入りを果たすことになる。

1428年室町幕府中期。日本は全国的な飢饉に苦しみ、田畑は荒れ、強盗が出没し、はやり病まで大流行するようになった。窮地に追い込まれた農民たちは惣(そう:自治組織)をつくると、土一揆を起こすようになる。暴徒化した農民たちは、寺や土倉(どそう:質屋)、酒蔵などを襲い農民たちは徳政令を勝ち取った。

1449年8代将軍足利義政は、飢饉や一揆などの問題を解決することができず、足利義満が後世に愛した「猿楽能」や「造園」「建築」など文化的なものに夢中となった。この財政難を救ったのが、足利義政の妻、日野富子だ。日野富子は高利貸しや関所の通行料などで大きな富を得ることになった。

しかし、日本をゆる動かす悲劇はここから始まる。足利義政は、政治が苦手だったので、出家していた弟の足利義視を還俗(げんぞく:一般人にもどる)させ跡継ぎの準備を始めた。しかし、ここで足利義政と日野富子に待望の男児、足利義尚が生まれると有力大名を巻き込んだ、将軍跡継ぎの戦い「応仁の乱」が起こる。

1467年から始まった「応仁の乱」は様々な思惑が入り混じっており、学ぶのも面倒くさいが、この時期を知らなければ戦国期に突入しない。様々な思惑を大きく分けると、「将軍後継争い」「幕府勢力争い」「跡継ぎ争い」「守護同士の権力争い」という、私欲(家の利益)の戦いだと個人的には思っている。

【東軍】
・足利義視・細川勝元・畠山政長・斯波義敏・赤松氏・富樫氏・京極氏など

【西軍】
・足利義尚・山名宗全・畠山義就・斯波義廉・六角氏・一色氏・大内氏など

大義名分のない「応仁の乱」は11年間、30万人近い兵士が戦うが、東西軍どちらの勢力で戦っているかもわからないような混乱もあり、はっきりした勝負もつかなかった。そして1477年に両軍が解散されて幕が下ろされるのだが。

残ったのは、日本全国の不安と、焼け野原になった京の町。将軍の権威や幕府の支配力が失われ、各地の支配権を奪い合う100年以上にも及ぶ戦国期に突入していくことになった。


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