能登半島地震に被災し見た光景に未だモヤモヤする
能登半島地震に被災してからもうすぐ1ヶ月がたつが、いまだに胸のモヤモヤが消えない。そのモヤモヤの原因は、今後起こりうる南海トラフや首都直下型地震のときにも必ず起きてしまうであろう事案なので、多くの方に知ってほしい。
私たち家族は輪島で被災したが、たまたま無事だった。私たちは余所者だから、すぐにこの場を立ち去ることを考えた。そして2日の朝輪島を立ち、夜には石川県から離れ、富山を抜け新潟と長野の県境までたどり着き仮眠。3日の朝には、すき家の牛丼を食べることが出来た。
その牛丼は人生で1番うまい牛丼だったことは言うまでもないが、無事に被災地を脱出できて良かったという嬉しい気持ちは生まれなかった。
その原因は、輪島を後にすることを決める直前(2日の朝8時)に立ち寄った、輪島中学校のことが忘れられないからだ。
輪島中学校のガラスが外れた吹き曝しの体育館の床に、横になるスペースもないくらいの密度で毛布を頭から被った人々が肩を寄せ合っていた。この人々はなぜ私たちと同じように、3日の朝にはすき家の牛丼を食べられないのだろうか?
同じ頃、たとえば金沢市はどんな状況だったのだろうか?東京や大阪はどんな状況だったのだろうか?なぜ、被災地の人だけがあのような状態になりそれが続き、すぐ近くの都市ではいつも通りの生活が送れているのだろうか。(物がたくさんあるという意味で)
まだまだ被災地にお住まいの方々は本当に大変な思いをされている状況なので、このようなことを言うのはタイミングが早いかもしれないが、これを最後まで読んでくださった方は、自分が被災するその日に向け考え想像し対策をしたり、声をあげるべきだと私は強く感じます。
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