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【エッセイ】ふるさと、そして、未来

初めに、このエッセイを投稿するにあたりまして、今回の地震で、故郷へ帰省する際に被害に遭われた方、故郷にて被害に遭われた方、また、災害のために帰省を断念された方々も含め、被災された全ての方々に、心より、お見舞い申し上げます。
          まどろみ天使


 私たちは時間の流れの中で生きている。ふるさとと未来は、それぞれ時間のどこに位置するのだろうか。とりわけふるさとを場所でなく、時間に於いて捉えてみようと思う。

 唱歌の一つ、「ふるさと」で、「志を果たしていつに日にか帰らん」とあるが、果たしてこれを歌う人間は、ふるさとに帰れるのだろうか。

 時々私たちは、過去の様々な地点に忘れ物をしてきて、その地点に戻って拾い集めてこようと試みる。ではふるさととは忘れ物のある地点だろうか。否、私たちのふるさとは一つとは限らないとしても、忘れ物は最早忘れ物置き場にはないのだ。そこに広がるのは、ただ生の孤独という残酷な風景である。

 ふるさとを思い描くとき、例えばそれは真夏の炎天下で白球を追いかけた記憶だったりする。これも心の原風景という意味ではふるさとの一種である。しかし、無論そこには戻れない。そこにあるのは、仲間に囲まれながらも、一人佇む私という実体の影遊びの跡、残影でしかない。「雨に風につけても」つまり社会におけるあらゆる困難に出遭うごと「思い出づる」のがふるさとであるが、思い出づるしかない、戻れない、残酷に突き放すからこそ原点でもある地点が、ふるさとなのではなかろうか。

 ではふるさとは時間の中でどこに位置し、未来とどのようにつながってゆくのか。

 私たちは確かにふるさとの意識を持っている。私たちの時間意識の中では、過去も未来も、現在の意識として現れる。つまり、過去も未来も、現在に於ける意識なのである。すると私たちは戻れないふるさとという過去をどのように意識しているのか。

 心の原風景であり、原点であるふるさとは、生の孤独が広がる残酷な地点であると記した。しかし、私たちは皆、この「生」に縛られており、そのために向き合わねばならない「孤独」というものを、生涯背負って生きてゆかねばならない。ふるさとは、まさに私たちの背中にあるのである。背中合わせなため、出会えないのである。しかし、生涯背負っている「温もり」を私たちの背に感じることができる。生の原点であるふるさとは人それぞれであるが、その温もりを私たちは皆、感じながら生きてゆくことができる。ふるさとは、戻れなくとも、リフレインの如くわたしたちの耳元でその存在を絶えず囁きながら、未来へと歩を共にするのである。

 したがって、年月を経るにつれて、心の原風景であるふるさとも増えてゆく、ということは、残酷さを増して背負いつつ生きるということである。しかし、この「生の孤独」つまり「ふるさと」を生涯背負ってゆくこと、それ自体が、未来の到来であり、この原点から脱却できないという前提の上に立ち、歩んでゆくとき初めて、私たちは本当の意味で、未来へ向かって歩んでいる、と言えるのではなかろうか。


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