見出し画像

粒≪りゅう≫  第九話[全二十話]

第九話


 早朝、まだ月が空に明るく浮かんでいる。午前4時。

 粒は、控えめに設定しているとはいえ、決して心地よいとは思えない音を、起きるまで鳴らし続けるぞ、と、やる気満々で音を発している、目覚まし時計のスイッチをオフにして、むくりと起き上がる。
 
 そして、上着を羽織ると洗面所へ行き顔を洗い、塩で簡単に歯磨きをする。気持ちよく、さっぱりして身も引き締まる。
それから、鳥肌を立てながら、出来るだけ急いでパジャマから服に着替えると、玄関にまとめておいたゴミ袋を手に、暗闇の中、ゴミ置き場に向かう。
 
 早朝とはいえ、全く人気を感じないわけではない。
一体何時から活動しているのかと、不思議でたまらない新聞配達の人が、自転車で通り過ぎて行く。
こんな時間に大丈夫?苦情は来ないのか?と思わせるほど、辺りを全く気にすることなく気分良さそうに、歌を口ずさみながら、ウオーキングをしている人もいる。
そして、粒と同じように、ゴミを出しに来る人もいる。
その人に対して、粒は、

“ゴミ出し、早くない?一体何時に起きているの?二度寝はなし?”

と思ったりするけれど

「あんただって、早いじゃないのさ」

と言われるよね・・・と、思い直す。
 


 空になった両手をぷらぷらさせて家に戻る途中、粒は空を見上げる。

 何とも言えない深くて濃い藍色の、しんと静かに存在する澄んだ空は、自分だけのもののような気がする。今、この時だけ。

 明るく光る月がじっとしている。と、その少しだけ離れたところに、チカリ チカリと優しく光る星が。
ああ、今日も見えた。粒は手を伸ばす。

“星は、星加さんになって現れてくれたのかもしれない・・・。いつも思っていた。いつかいつか・・・と、星に願いをかけていた。私の中に、チカリと光が瞬く日が来ますように・・・”

と。
 
 
 家に戻ると、お弁当作りと並行して朝食の準備、昨晩室内に干しておいた洗濯物を片付けて、今朝かける分の洗濯物を入れて洗濯機を始動させ、アイロンがけをする。
あっという間に、それぞれがそれぞれの行先に向かって家を出る時間がくる。クルクルと時間が過ぎていく。クルクルと日が過ぎていく。
年を経ていく。
 
 
 粒は、家族が元気でいてくれることに感謝し、自分の役割だと思う事柄に、黙々と取り組んだ。
 
 
 いつからか、いつも見上げてその存在を探していた星が、自分の中にも存在し、瞬いていると感じるようになった。

***

「さむっ」

息を吐くのと同時に口から出る。

「さむっ」

 言って寒さが和らぐのでもないのに、つい口から吐いてしまう。
ああ、指がジンジンする。いや、それを通り越して、もう感覚の無くなりつつある指もある。
 
 粒は、寒さに弱い。粒の体が、寒さにめっぽう弱いのだ。
暑いのも身に応えるが、寒い時期は、身も心も両方やられる。
 
 粒はもう、はっきりとは思い出すことが出来ないのだが、数年前のある日以来、手の指先が極度の寒さに遭うと、まるでそれは死んだ人のそれのように真っ白になってしまうようになったのだ。
 
 初めてその状態になった時、粒は、自分のその指を見てギョッとした。
パニックになった。
寒いからといって、そんなに血の気のない自分の指を見たことが無かったから、自分の身に何か異変が起きているのではないかと、ひどく怯えた。

 元々冷え性で、冬には必ず霜焼けになるし、常に足元や首回りがゾクゾクと寒い。
夜、寝床に入っても、足が冷え過ぎていてなかなか寝付けない。
足と足をこすり合わせてみたり、湯たんぽのぬくもりで温まろう、と思ってもなかなか芯まで温まることは出来ず、そうこうしているうちに、今度は尿意を催してくる。
それで、用を足すためにトイレに向かうのだが、寝床に戻る時にはまた、身体が冷えきってしまっているのだった。

 寝入る前にこんな事を数回繰り返し、夜中に二度ほどトイレに起きる。このようなことは体質だからなのか、歳だからなのか・・・。
 
 
 初めはギョッとした指先だったが、慌てて手をこすり合わせたり、脇に挟んだりしているうちに、ジンジンと痺れる感覚がしてきて、そのうち本来の手に戻ってくる。
 粒は、白くなった指を見るのが怖くて、出来るだけ指先が冷えないように、手袋を二枚重ねてはめたり、カイロで温めたりしてしのいだ。
それでも、長時間寒い中に身を置くと、一本二本と、やはり指先が白くなってしまうのだった。

***

 
 星加から、指示のあったページ数分の作品が出来上がって、それを見てもらうために、出版社へ出向いたその日も、身に堪える寒い日だった。

 一生懸命に、一枚一枚描いた作品が、粒の心の糧となっていくごとに、ふくふくと喜びが湧いてきて、粒の、干からびていた心が、ふくよかになっていった。

 
 出版社のビルの一階には、一見、何が描かれているのかよく解らないのだが、見ているうちになんとなく心が落ち着いてくるという、不思議な壁画に囲まれた喫茶店があり、そこが、編集者との打ち合わせ場所となっている。

 編集者との打ち合わせ・・・とてもカッコイイではないか。
粒にとっては、自分の人生の中に、このような場面が組み込まれていようなんて、想像もしなかった事だ。
 
 粒は、命の不思議、人生の不思議を、壁画を見ながら思う。

“この不思議な壁画に出逢えたのも不思議。私が、自費出版を決意しなければ出逢えていなかった。ここにこうして来ることなんて、なかった”

と思いながら、担当の編集者を探す。
ああ、見つけた・・・店の奥。観葉植物の隣の席に、その人の姿はあった。  粒がこの店の中で、一番好きな席だ。
そして、ふわりと会釈をして「ここです」と知らせてくる、星加光翼。
粒が、自分の人生の中で、出逢えるなどと想像もしていなかった、美しく優しい人。

「おはようございます」

「おはようございます」

「寒い中、お越しいただき、どうもありがとうございます。」

“星加さんはどれくらい前にこの席に着いて、私の事を待っていてくださったのだろうか?今日の打ち合わせ内容を確認したり、私に伝えなければならない事の確認なんかをしていたのだろうか・・・それとも、業務終了後のデートの事とか考えていたりして・・・”

などと、あれこれ思い巡らす粒。
初めて出会った時の緊張感が、随分とほぐれている自分に気付き、ああこれも、年を重ねてきた証なのかもと思った。

「よろしくお願いいたします」

粒はお辞儀をした。
そして、星加に出来るだけ余計な時間を取らせてはいけないと思い、急いで上着を脱ぎ、鞄と共に、足元の荷物入れに入れて席に着いた。

ああ、手袋を外さなくては、と慌てて二重にはめていた手袋の先っぽを引っ張った。もう一方も同じようにして、粒は、さっさとぬくもりのある手袋を鞄の中に押し込んだ。
 
 本当は、ずっと手袋のぬくもりに包まれていたい。その方が、実際、手も温かいし安心感もある。
建物の中とはいえ、粒の指先は、いきなり白くなるのに場所を選ばないのだった。

“ん・・・?”

姿勢を正した粒が視線を感じて、目の前の星加に目を向けると、星加の目が、粒の手元に釘付けになっている。
星加の目が、粒の手を食い入るように見ている。
ふと、粒が、自身の手に目をやると・・・やはり、蒼白になっていた。
星加が、驚きと不安のこもった様子で

「手・・・」

と、粒の手をうかがった。
そして、星加が、じっと粒の手から目を離さずに、もう一度言った。

「手が白くなっていますよ。」

「私、寒さに弱くて、指先が、すぐにこうして真っ白になってしまうんです。」

粒は、星加を驚かせないようにと、早口で説明した。

“初めてこの指を見たら、それは驚くのも無理はない。死んでいるもの、この指”

「大丈夫です。マッサージして温めれば、しばらくしたら、元にもどりますから。」

と、粒が話し終わるか終わらないかのうちに、星加はすっくと立ちあがると、足早に調理場の入り口のような所に向かった。
そして、中にいるスタッフに、何か言っている様子だったが、粒は星加が何を思って、何をしようとしているのか全く分からず、ひたすら手のマッサージをして、一刻も早く元通りの手に戻すことに集中した。
 
 焦れば焦るほど、自分の手に戻るのに時間がかかる。
いつからか、何となく、こうして指先が白くなるのは、なにも寒いことだけが原因ではないのではないか、ということを粒は、感じ始めていた。
緊張したり、異様に興奮したり、愕然としたり、自分で理不尽だと感じる怒りに震える時等、時には寒さと連動しているようで、また時には、感情のみの作用かと思われる時もあった。
 
 必死で指を温めている粒の横にいきなり、粒の記憶を呼び戻す《匂い》がきた。

“!!この《匂い》は!”

”この匂いに再び逢えるなんて”

 粒の鼓動は大きくなり、その鼓動が、マッサージしている指先にまでどくどくと届いてくる。
頭の中に一気に血が巡り、カーっと熱くなる。

粒は

“ああ、そうだ、そうなのだ。この人は、星加さんは、あの時電車の中で隣に座った、あの匂いの持ち主なのだ”

と確信した。

 こんな体験は、これまでしたことがなかった。
頭で判断する、とかではない、粒というものを成り立たせている全てのものが、そういっているのだ。そうなのだ、と。
 

 星加の手によって運ばれ、ゴトン、と、粒の目の前のテーブルの上に置かれた物は、ガラスのボウルだった。
そのボウルの中には、水?いや、湯気立つお湯のようなものが入っていた。星加は粒の手をつかむと、そのボウルの湯の中に入れ、無言でさすり始めた。
粒は、感情が真っ白になってしまい、思考も、音もなく止まってしまった。そして、ただ『無』の状態でいた。


“ええええええー”

と、正気に戻った時には、今度はどんな態度を示せば良いのか、どんな言葉を発すれば良いのか、全く分からず、引き続き『無』でいることにした。

「良かった!!赤みが出てきましたね!」

ハッとして、粒が自分の指先に目をやると、確かに指は、安心な色になっていた。
ほのかにピンクになって、粒の頬とお揃いになっていた。

 粒は、星加のような人に、いきなり手をとられ、さすられるという、どうひねくりだしても、自分の生涯に起こるとは思いもしなかった出来事に、動揺と喜びに心が震えていたが、出来る限り年相応の冷静さを装いつつ

「ありがとうございました。助かりました!」

と、顔をほころばせて、心からの礼を言った。


 
 粒は、この日は、この、胸ときめく出来事に脳が支配されていて、他の事は何も頭に入ってこず、その出来事以外の記憶は何も残らず、一日を終えたのだった。



第十話につづく


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?