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第328回、日本の教育環境といじめ問題について、もう少し語ってみた


いじめは日本にしかないのかと言えば、そんな事はないですし、海外映画やドラマを見る限り、欧米の学校にもいじめの描写は、よく出て来ます。

ただ日本のいじめと描かれ方が違うのは、いじめをする人達も、1~3人程の少人数で、多くの場合、いじめは、個人対個人の問題として描かれている事にあります。

海外のいじめの認識を、そのまま日本のいじめ問題に当てはめて考えるのはとても危険な事だとは思います。日本で行われているいじめは、個人対個人ではなく、個人対集団(クラス全体)である場合が、殆どだからです。

しかし同時に、いじめをクラスの中の生徒達の心の問題としてしまう事に、ある種の危惧も感じています。

前回も言いましたが、日本では、和の心、協調性の精神による問題の解決を考える傾向があり、そこから導かれる、いじめの解決方法としては、

いじめをする人に、仲間はずれを作らずに、誰とでも仲よくするんだ。
いじめられる人に、お前もクラスの仲間と、協調性を持つ努力が必要だぞ。
その他の人達にも、これはお前達、クラス全員の問題でもあるんだ。

という事にしてしまうからです。
教育者にとって、いじめのないクラスとは、あくまでもクラスの生徒全員の意識が一つにまとまっている、一致団結した状態の事を示しているのです。


自分は前回、同じ年齢の子供だけでクラスが構成されている、年齢別教育の問題性の指摘をしましたが、ではこれを改善すれば、いじめはなくなるのかと言えば、自分はそれでも、いじめはなくならないのだと思っています。

語弊が生じる事を覚悟して言えば、自分はそもそも、いじめがなくなる事はないし、またなくさなければならない物でもないとも思っているのです。

人間が全員、善良な意志を持って生きる事はほぼ不可能ですし、逆にそうでなければならないのだとしたら、自分はその事の方が、息苦しく感じます。

人間が全員善良でなくても、不完全な状態であっても、それでも特定の人が人生を狂わされないで済むような、個々の事情に柔軟に合わせられる、流動的な教育環境の構築こそ、必要なのではないかと自分は思っているのです。

その具体的な案を、自分が持っている訳ではありません。
大学のように特定のクラス構成を持たない、教科別の授業や、塾のような、習熟度別のクラス編成という考え方もあるかもしれません。

またいじめを受けた子供が、自分にあう学校に転校するのも、決して間違えている事だとは思っていません。理屈としては、いじめをした方ではなく、いじめをされた方が転校するのはおかしな事ではありますが、しかし自分は論理的に正しいかどうかよりも、各々の人が、自分にあった生き方を選んで生きられる事の方が、重要だと考えているのです。

全ての人にとって理想的と言える、完全な教育環境はないのだと思います。
人はそれぞれにタイプが違うので、どの環境がその人に向いているのかは、人によっても異なるからです。

だからこそ、様々な考え方の教育環境があるべきであって、子供達が自分にあった教育環境を選べる事が、大切ではないかと思っているのです。


しかし現実的な問題として、学区制度の縛りや、多様な教育環境を用意する余裕がない事もわかっています。自分のような人間が口を出して、解決する単純な問題ではない事も、理解はしているつもりです。

前回の自分の意見と反するようですが、やはりいじめは、それを行う人達の心の問題として、きちんと向き合う必要がある物なのだとも思っています。

それでも一切の教育環境の改善を行わずに、今の教育制度、教育環境の中でいじめをクラスの中の、子供達の心の問題としてだけに捉えてしまう事には幾分の危惧を感じてしまうのです。

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