見出し画像

モナストレル

 このような時にはいつも何を書いたら良いのかわからなくなる。血も涙ももう、流さないで。遠い国の出来事だとしても、信じたくなくても現実なのである。自分の身を切られているように苦しくなってしまう。悲しみをこれ以上重ねないで…

 人々の苦しみに押しつぶされそうでも、それでも、日常を営んでゆかねばならぬ。粛々と掃除をし、洗濯をし、料理をし、食べ物を口に運び、仕事をする。集中もしなければならない。

 今日を終えて、ニュースをチェックして、重い気持ちを引きずって、夕闇の中に飛び出す。橙色の灯火に縁取られた小径、赤い月の下、どんどん歩いて歩いて、階段を上って降りて、また上って。夥しいコウモリが街灯に群がっていた、外国暮らしでそんな夜が昔あったことを思い出しながら、逢魔が刻を歩いて歩く。

 歩きながら、オーディブルでレキシントンの幽霊を聴いていた。この作家は、死についてばかり書いている。そう、死とは、ある日突然消えてしまうこと、忽然と。そして、二度と戻らない。絶対に戻らないのだ。

 今夜は久しぶりに赤にしようと、スペインのモナストレルを選んだ。黒い果実と黒胡椒の香り。腐りかけた肉の野生的な香り。芳醇な味わいと滑らかな渋み。鴨肉をソテーして。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?