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デザイン〜ニコラス・G・ハイエックセンターの衝撃〜

 それはあまりに劇的だったから、言葉によって記録しておく必要がある。僕はその日、群衆の一員である必要があった。銀座の路地を右へ、左へ。目的もなく、ただこれは小さな冒険のようなものだから、誤って同じ路地に入り込むことだけは避けるようにしてもう冬の銀座の夜を少年の夏休みの素材によく使用されるダンゴムシのごとく動き回っていた。群衆といっても銀座の夜の案外静かなことはここに書き留めておく必要があって、つまりこの小冒険は冬の冷たい乾燥もあいまって、少々の孤独が否めないものであった。
 ところでこんな不穏な動きを開始した原因はやはり酒である。酒、、それもモエのシャンパン。そんなものを飲むつもりはなかったのだが、あの奇怪なラーメンを食べてしまったばかりに、、それは生ハムとフロマージュがスープの上に浮かんだ、見るに奇妙な代物。ラーメンファンは憤慨して店の看板を破壊してしまうかもしれないが、幸い僕はラーメンファンではない。どんなものかと、ミシュラン判定員のような高貴な顔をして店に入ると券売機のようなものが目の前にあった。それは麺類の店ではよくあることだから僕は操作を始めると、まずは席に着くよう促された。退店時にわかったが、どうやらこれは店を出る際の精算専用のものであった。紛らわしいものを…しかし、この奇怪なラーメンの味は実にすばらしかった。発明だ、こんなふうにラーメンを食べにきた客にシャンパンを注文させることに成功したなら、それはビジネスとしてあまりに優れている。さて、僕はここで思いがけずモエのシャンパンを飲んだから、小冒険が始まったのだ。シャンパンを飲めば誰でもロマンチックな気分になるものだ。一人で街を徘徊することのどこにロマンがあるのかと、聴衆の憤怒はここまで聞こえてきそうである。しかし。ロマンとは可能性なのだ。何かが起こる可能性。だから、散歩はロマンチックなんだ。
 何も起こらない可能性の方が実際には高い。だが、ここに書いているくらいだからこの小冒険には予期せぬ感動があった。それが、まさしくニコラス・G・ハイエックセンターでの体験である。
 時計、これについて少し持論を展開しようか。僕は日々、身だしなみについて小言を浴びせられながら生活している身ではあるが、その実、身につけるものの調和に関して細心の注意を払っている。その結果が、例えば中学時代のあの真冬Yシャツ男児の発生ということになる。つまり、僕の顔と体格にどうも学ランは似合わなかったから、それはもう着用しないという選択になる。中学の校則は厳しく、学ラン以外のものを着用すれば指関節の角で殴られる恐れもあったので、仕方なく寒さに耐えながらYシャツで生活する。あるいは、真夏35度の日にも長袖を着ていることが多かった。それは、自分の肩から腕にかけての形と半袖の相性がどうも好ましくないから。とにかく、外界との調和はさておき、自分の身体に纏うものが調和していないと何事も手につかなくなる。そのせいで、服装がどうもしっくりこない場合にはデートが中断し、家に帰ってしまうこともあった(これは最近ではなくなった、他人の時間の貴重さをようやく理解し始めたのだ)。僕にとってのオシャレは、それが流行しているか、それがどこのブランドのものか、高価であるか、希少であるか、そういうことは全く関係なく、自分の意図の下で調和していること、意味をなしていること。これが全てである。時計も当然、着用するからには意図の下で調和していなければならない。高尚な意図である必要はない、ただその着用を他の選択肢と検討するその掛け替えない数秒、数分の価値のことを言ってる。僕はここで同世代の男子に警告しておきたい。僕らの年齢くらいでROLEXやOMEGAなんかを着用するなら、細心の注意を払った方がいい。それは目立つだけに、調和していなければセンスのなさを世間に露呈することになる。同世代の働くものたちはある程度の大金を手にし始める時期かもわからないが、金の使い道があればあるほど、自らのセンスが露見する機会が増えることにはいつも注意しなければならない。打席数が増えれば、波形は実力に向けて収束していく。最も、こだわりを持って珠玉の一本を買おうという野心的魂胆に、僕は大賛成であることをここに添えておく。あと、女性が高い時計をつけているのもいい。男性と女性を区別している!!などと目くじら立てるジェンダー論者がいないことを信じて、女性はもう僕ら男より何年も前から自分の容姿というものと向き合っている。だから、一生埋まらないくらいのセンスの差が男女間にはある。女の人は、髪、化粧、靴、アパレル、その全てを調和させる術に長けている。物心ついた時からメイクを研究し、デパートのコスメフロアで商品の荒波に揉まれながらも自分に合う一品を選び抜く力を持っている。だから時計も、そんな調和の中に気持ちよく収まっていることが多いのだ。っていうのは、少々女性へのステレオタイプ感が強すぎるか、失敬。あとはapple watch。当然、あんなスマートなもの、僕も買おうと思ったことがある。ただ、本体の色、素材、サイズに始まりベルトのデザイン、この爆発した場合の数に慄き、怖くなって逃走した。僕には選べない。
 さて、これほどの遠回りが許されるのがnoteを使う良さである。遠回りをしながら核心に近づいている。僕が今日、ニコラス・G・ハイエックセンターで受けた感動は紛れもなくデザインに関する感動なのだ。デザイン、これは意図によって初めて可能になるものである。「ある意図に対して、関連する要素が一貫性を持って調和している状態」、僕はこれがデザインの正体だと思っている。ここでは、購買体験が完全にデザインされていた。そもそも僕は、時計を買うつもりなどなかった。ただ、swatchブランドが集積し、小さなガラス張りの円形ブティックが集合している興味深い場所があると思って足を踏み入れた。純粋に綺麗で、モダンな場所。そういえばinstagramでswatchの新作、ベルトから文字盤まで同じ柄のド派手な時計を見たが、それって実物はどんな感じなんだろうか。そう思ってガラスの円形ブティックに足を踏み入れると、、そこには黒いモニターが。おや。ここに在庫はなくて、流行りの実店舗×デジタルみたいなやつ?と思っていたら、黒服からswatchの時計をお探しですか?と。僕が頷くと、上にありますと。上にはただの吹き抜けがあるだけだった。何を一体、、と思っていたら円形ブティックの扉が閉まり、それが上昇した。僕はここで衝撃を受けた。だって、エレベーターの機構なんてどこにも見当たらなかった。そこは、確かにただの吹き抜けだった。僕はその吹き抜けを、ガラスの円形に乗って上昇している…信じられない。船が堤防に船体を寄せるように、その円柱はswatch storeの入り口にぴたりとはまった、、そこから先はもう、ただswatchの時計が並んでいる普通のお店。別にswatchの時計なんて初めて見るわけでもない、何ならラスベガスの空港にあったから何度も実店舗を見てswatchは違うかな、、という逡巡を経験していた。にも関わらず、もうその時の僕には全く別物に見えていた。全てがクール!!そんな状態だから思いがけない買い物をしてしまったものである。これが実店舗の可能性、これが購買体験のデザインというものである。完璧なcustomer experienceであった。ワクワクして仕方がない、坂茂そして企画チーム各位あっぱれ。これは単なる一発の衝動買いに止まらない。僕はこういう世界観をデザインできるこの会社事自体に、一種のロイヤリティを抱き始めてしまったのである。ちょっといい時計が欲しくなったら、TissotやOmega をここに買いにきてしまいそうだ。本当に素晴らしい、僕はこのブランド群に惚れきってしまった。
 いいかい、これがデザインの力。人の心をこんなにも動かす可能性を秘めている。オンラインでなんでもできる今日でも、フラッグシップストアを銀座に構える価値はやはり大きく、目抜き通りを歩きながらferragamoのビルの明らかに無駄な電飾、fendiの入り口から漏れる香りに心を躍らせるわけである。どのブランドも、顧客との直接的な接点を大切にしているのだ。さあ、いよいよ皮肉の時間がやってきた。航空会社はどうなんだ!商売がら、直接のタッチポイントが必ず生じる飛行機の搭乗体験、これはデザインされている?いいえ、全く。一貫したコンセプト、意図がなければそもそもデザインというのはあり得ない。水がなければデザインという魚は息ができない(魚はキングオブコントを見て使いたくなっただけの陳腐な比喩、、笑)のだ。会社の中の人間も、坂茂も、地上の黒服も、天空で僕を迎えたスタッフも、皆あの購買体験の仕掛けを理解しきっていた。一人でもわかっていなければ、ああいう体験は成立しないのだ。だからまず強固なコンセプトがあること、そしてそれを浸透させるカリスマの存在が必要なのだ。興奮の勢いに任せた4000文字弱、そろそろ疲れたので擱筆させていただこう。僕は演技の準備をしなくてはならないから…職業?今のところは俳優ですよ。台本、読み込まないと…




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