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小さい政府における<経済成長vs福祉社会>の歴史~大西つねき発言をうけて

1.反福祉国家論の系譜から~日本型福祉社会論

1973年の石油危機以降のスタグフレーションを受けて、1980年代からアメリカ(レーガン元大統領)イギリス(サッチャー元首相)を手本にしつつ、<小さい政府>を目指す行財政改革が推進された。

国鉄→JR 電電公社→NTT 専売公社→JT

といった<官から民へ>という規制緩和の流れが中曽根元首相の時代にわが国で加速した。効率性が重視され、<日本型福祉社会論>なるものも登場した。背景には75年以降の巨額の赤字国債発行、重税にあえぐ財界の主張があった。

政治・経済が公的福祉支出を経済成長の足かせと見て公的福祉支出の縮小・切り捨てを容認する議論財政削減イデオロギー・超緊縮としての批判を免れない。個人の自助努力や家庭・近隣、地域社会の連帯に依存した福祉観は戦前回帰的なものであるともいえる。

その後、1987年『昭和61年版厚生白書』閣議決定において、<民間活力>による福祉サービス供給が提唱されている。

今後の公的部門は、①国民の切実なニーズに対応するサービスであって、対象者が低所得者であることなどの理由により、基本的に民間によるサービスの提供が期待しがたいもの、②国民の切実なニーズに対応するサービスであって、広い意味における市場機構を通じての民間サービスの供給が十分でないもの、に限定されるべき

こうして当時の厚生省は<シルバー産業>民間有料老人ホームや民間在宅福祉サービス事業などに公的融資を推進していくのであった。

※(参考)アメリカの哲学者ジョン・ロールズは『正義の理論』(1971年)において福祉についてのリベラル的な定義をしている。

<機会の平等>は貧困や社会的差別によるハンデを完全に打破できるものではない。誰もが明日疾病や事故により陥るかもしれない<結果不平等>は決して自助努力の欠如ゆえではない。よって、最も困窮する人々の福祉を最大化する<結果の平等>こそが、福祉社会の基本理念とされなくてはならない。

2.人はなぜ税金を払うのか

福祉実現のための財源は税金である。税金は自分のために払うのではなく、いかなる人も人間らしく生きることを保障する<公助>である。だが、<国家のための個人>という国家主義的思想が強まる時代においては総じて<公助>という観念が弱まる。自助能力の高い、すなわち国家への貢献度が高い者ほど評価される。反対に自助能力のない弱者は切り捨てられる。

3.大西つねき氏の’命の選別’YouTube騒動

[要旨]大西:高齢者は死んでいいのか?高齢者は死ぬ確率は高い。どこまで高齢者を長生きさせるというのは我々真剣に考える必要がある。介護分野でも医療分野でも、これだけ人口比率がおかしくなっている状況の中で、とにかく高齢者を長生きさせる、死なせてはいけないという政策をとっていると、どこまで若者たちの時間を使うのかということは真剣に議論する必要がある。命の選別しないとダメだと思う。その選択が政治。選択しないでみんなに良いこと言っていても、現実問題としてたぶん無理。そういったことも含めて、順番として選択するのであれば、もちろん高齢の方から逝ってもらうしかない。

※私は削除される前に動画全編を視聴済
そのうえで申し述べる

大西氏の主張はこの一回限りの失言と擁護する支持者もいるが、彼のこれまでの講演会のレポートを見る限り、一貫してブレていない。この<命の選別>ナチス・ドイツの優生思想と同一視されることにヒステリックに反発する支持者もいる。

100歩譲って、あえてそれ以外の政治学・行政学の見地からの検証を試みたところ、これは<福祉社会>の否定・軽視ではないかと思う。特に大西氏の経歴・元大手外資系金融機関出身ということからして経済ありきの主張に見えるのは私だけだろうか。反緊縮を謳うはずの所属’グループ’とも馴染まない主張。むしろ長年の自民党政治、はたまた最近で言うところの維新の政治とどう違うのか。親和性で言えばどちらに近いかは明白。自民党政治が家での看取りを推奨する、それすらも諦めさせようとすることの危うさ。

切り捨てられるのは自分かもしれないと怯えて暮らす社会に生きて、あなたは幸せか?

安楽死や尊厳死以前の議論である。

【参考文献】『福祉行政と官僚制』新藤宗幸著/『日本の行政』村松岐夫著/・『どアホノミクスの正体』佐高信・浜矩子 共著

最後にNHK番組(約1時間)『それはホロコーストのリハーサルだった:T4作戦』のリングを以下に添える。
※動画内 御遺体の映像も含まれます
※当初の虐殺は障がい者のみならず、高齢者も対象となりうる証言があり、このたび問題の主張と重なる

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