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おやすみ

なつやすみがはじまった。学校がない。このまえひっこしてきて、みんなのいなかっぽい、きたないことばづかいもきかなくていい。プリントをぐちゃぐちゃにして回してくる男子にも会わないでいい。まえの学校でつかっていたきょうかしょで、ここでもつかえるものは、ネームペンで書かれた前の小学校の名前を、力のつよいママがけしゴムでけして書きかえた。それを見ると、あたしはもう二度とだいすきだったあの町とあの小学校に行くことはないんだと思えて、かなしくて、せんを引いて前の小学校の名前を上から書いた。すぐママに見つかって、けしゴムでけされて書き直されてた。そんなだいっきらいな学校が、今日はない。

ここはママとパパがうまれたところ。ママはじぶんのふるさとにもかかわらず、あたしのためにと前のところにのこるとパパに伝えてた。でもパパはこっちに来たかったから、ママがまけた。あたしは家でも小学校でもわんわん泣いて、みんなにも泣かれた。そんなこんなでこっちに来た。

こっちに来て、ママはしごとをはじめた。あたしは、ママがのみ会でよるにお出かけした日にはずっと泣いて、うるさいってパパにおこられるくらいママが好きだったから、すごいさびしかった。土日はパパと二人だけど、なつやすみは平日もあるから、そのときは一人でおるすばん。一人でおるすばんするのも、大人になった気がしてすきだった。でんしレンジのつかい方や、おさらのあらい方も知れたし。でも、さびしい。

今日はママもおやすみ。あたしはおるすばんしなくていい。ママと休みがかぶったら、よくすることがある。車で30分くらいいったところにある大きなショッピングセンターでぶらぶら。そのあとは中にあるレストランやミスドでごはんをたべて、おうちにかえる。生活の買いものもすんでるからそこに行こうとママに言われて、あたしはうれしくなった。

ひっこしのときもずっとのってきた、ママはゴールドと言っていたけれどどう見ても砂みたいな色をしたデミオの中で、何をたべるかはなす。今日はママとあたしのお気に入りのパスタ屋さんに決まった。

おようふくを見て、ママの好きなバッグやさんを見て、いよいよごはん。あたしはここのお店のぜんぶが好きだった。パスタはおいしいし、ふんいきも大人っぽくて、あたしもいつか一人でこんなお店に行きたいといつもおもってた。このお店のパスタはりょうが多いから、いつもママとはんぶんこ。ママの好きなぎょかいけいのパスタにするか、あたしの好きなワタリガニのトマトクリームパスタにするか。二人ではなして、あたしの方に決まった。

そして出てきたワタリガニのトマトクリームパスタ。カニそのものみたいなからがついていて、すごいきれい。たべるときはママがそれをはしによせて、カニを多めにあたしにくれる。ママの好きなところはいっぱいあるけど、たべるのが好きなママが、おいしいところはぜったいあたしに多くくれるところが大好き。

ママはいつも、ママがやすみをとれないから旅行にもつれていけないとか、一人でおるすばんをさせてしまうとか、いつも気にしてた。あたしもそれはいやだった。まわりの友だちがかぞくで旅行をしているのとか、かぞくみんなでスライドドアのある大きな車にのって出かけているのを見て、うらやましかった。でも、こんな風にお出かけできるから良かった。いやな学校ものりこえられた。さびしいやすみもあるけれど、こんなやすみがあるから良かった。

ママはいつも、あたしが大きくなったら、あたしと姉妹みたいになりたいって言う。おようふくのかしかりをして、お出かけしたいって。そんな風になれるように、ママは美とけんこうをキープしたいってはりきってた。あたしも、色んなことを気にかけていて、びじんでスタイルもいいママだから、ぜったいにそうなるんだろうな。


あれから15年が経つ。健康に気を遣い、美意識が高かった母は、2ヶ月前に癌で旅立った。きっかけはちょうど1年頃前。物を食べるときに詰まりを感じると言い始めた。病院に行くよう薦める私に、薬に関する知識に長けた母は大袈裟だと笑い、逆流性食道炎の薬を飲んでいた。

しかしいっこうに症状は快方に向かわなかった。そんなとき、当時のように母とパスタ屋に行った。15年前とは違う、母がOL時代を謳歌していた時から大好きだったパスタ屋。当時から大好きだったらしいパスタを口にし、飲み込もうとした瞬間だった。母が席を立ち、化粧室へと向かったのは。その間の私は頭を真っ白にしつつ、救急車の有無を決めあぐねていた。すると母が帰ってきた。私は静かに、しっかりと、病院に行くように伝えた。母もさすがに同意した。

近所の病院から帰った母は、大学病院に今から行かなければならないと話した。癌の可能性が高いと言われたとのことだった。その日の全てが終わったあと、何故もっと早く病院に来なかったのかと言われたと笑っていた。私も無理矢理にでも連れて行けばと後悔した。だが、熱い母のことだ。意地でも治すのだろうとと思っていた。

そんな母をも容易に蝕む癌。母が息を引き取った際、私は社会人になりたてだったこととご時世の影響で、母の見舞いにまともに、否、一度も行っていない。上記の通り、意地でも治すと信じていた。信じすぎていたのだ。母の死後は様々な雑務に追われた。母に向かう悲しみの涙ではなく、疲労からただひたすらに流れる、病的な涙が止まらなかった。

気付けば8月。母の初盆がやってくる。月200時間の勤務や自宅での雑務に疲弊した私は、人事に休みが少ない旨を漏らした。それが功を成したのか、今月はとても休みが多い。朝から家事も終え、行ったことがないところへとランチに出かけた。

一人でカフェに佇む。隣の書店で買ったばかりの料理本を捲り、作り置きの献立を考えながら。そしてふと窓の外を見て、脳内が空になった瞬間、母との日々が鮮明に甦った。ランチに行き、パスタの蟹を私に多く取り分け、帰宅後ミスドのチョコファッションは私に2/3渡しつつもチョコはしっかり半分にした休日。長年大好きな生クリームが売りのケーキ屋のいちごタルトを、苦手だからと生クリームを除去したものを遠慮なく母が特注してくれる私の誕生日。全てが走馬灯の如く蘇り、人目もはばからず涙が零れた。

母の死から早2ヶ月以上。ようやく今日、母の死に涙した。様々な気苦労からそれらを感じることなく日々を過ごしてきたが、今日になって悲しみに襲われた。母子共に好きな平井堅の、母の出棺の際に流したGaining Through Losingという曲に、このような歌詞がある。

痛みと歓び分かち合い 絆深めた人の
飾ることない言葉の粒 今も胸に抱いて
Gaining Through Losing/平井堅

母との言葉はもちろん、思い出も、全ての粒を抱き、これから生きていきたい。否、生きねばならない。母は今頃空の上で、ばたばたと社会人として生きる私にひやひやしているだろう。そんな母を安心させてあげられるような人間になることが、私の直近の目標だ。

生前、働きたいであろうに私が心配だからと小学校に上がるまで主婦をしていた母。何年も貯金し、砂色のデミオから特別仕様車のパールメタリックがかかったデミオを買ったにも関わらず、その数ヵ月後に長距離通勤を課せられた父に車を譲った母。家族の為に粉骨砕身していた母。これからはどうか安心して、ゆっくりと休んで欲しい。

私の文章を好きになって、お金まで払ってくださる人がいましたら幸福です。