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不幸自慢は何も産まないが誰にも読まれないボトルメッセージは数多存在する

Netflixで俺の家の話を再視聴した。宮藤官九郎脚本、長瀬智也主演のドラマだ。それを初めて見たのはちょうど認知症が進んでいた祖母を家もろとも焼失した後2021年ごろだったか。2023初旬。再視聴できたのはNetflixのおかげだった。ありがとうNetflix。

嫌なことも多くて滅入りそうな時に限ってトラブルは重なる。引き寄せの法則に則ればこれらも私自身が引き寄せているからなのだろうか。無理矢理ポジティブに変換して考えたり言い換えたりしてなんとか乗り切ろうとした。苦しみ余って笑ってみたが配偶者にすら狂った人間のようで気味悪がられた。楽しみにしてたことでも辛くなる。予定が詰まるからだ。やりたいこともあるのにやらなければならないことも増える。できないことのほうがやたら増えて八方塞がり。

この世の全てのものは有限だと最近常々感じた。
時間とか熱量とか。限りあるものに感謝しないといけない、理性では理解している。だがいつも忘れてその真理をまざまざと見せつけられて傷付くの繰り返し。
削っていくことも覚悟しないといけない。だが、削っていったものは元には戻らない。冷静に判断して志を胸に穿たねばならない。不可逆な楔を。たとえ身を裂く痛みや悲しみや後悔に襲われても。分かっている。分かっているが。

学校の教師は嫌いだった。
中学の担任は父母の先輩にあたる人だったが尊敬はしなかった。言動がそこはとなく鼻に付き、気に入らなかった。こんな人がその時は無自覚にも尊敬と畏敬を抱く父母の先輩にあたるとは思いたくなかった。だが彼の慈悲には感謝せねばならないこともあった。それは私の人生史において貴重なことではあったが今は閑話休題。
忘れられない違和感がある。
道徳の授業で人を殺すことがいけない理由を教師である彼に聞かれた。
適当に答えようと思ったのか真理だと確信したのか当時指名された私は「周りの人が悲しむから」と発言したら「違う」と言われたんだっけ。それだけは鮮明に覚えている。
「人が悲しまなければ殺しても良いのか」って否定されたんじゃなかったっけ。それだけは鮮明に覚えている。
悲しまない戦犯や死刑囚のことを指したのか、もしそう反論したとしてもそれらの対象には少なくともその状態になる存在を否定する根拠にはならないといま思えば矛盾するが、彼は何を正解と是としたのか。うろ覚えだ。
だが確かにその当時の答えとして提示されたのは「元には戻らないからだ」と言われた。そこだけはよく覚えている。
であればマグカップの持ち手が壊れても修理はできても2度と元には戻らない、それも人を殺めることと同じく許されないことなのかと納得できなかった。思春期の幼心ながら反抗心を抱いたのは覚えている。そのマグカップが当人にとって変えがたい物であったら?物であれば許されるのか?そこまで考えるとしみじみ彼の道徳の授業は成功だったとも言えよう。その当時は聞き返すことも討論する気概もなかった。私はまだ納得できていない。
私の大切な宝物がそうなったら私は許さない。物だろうと人だろうと元には戻らないことなんていくらでもある。それは命を奪うこと以外にもあるはずだ。可能性や重要度はいくらでもある。枝葉を取ればきりがない。幼児期私が大切にしていたぬいぐるみを家の火のついていない汚れた焼却炉に放り込んだ母を一生許しはしない。でも母に恨みはない。でも許さないと決めている。私の元来よりの執念のせいだろうか。ネットミームにいうトラウマか。それでも私は断言する。母に恨みはない。だが許しはしない。そこまで噛み締めれるようになった自身を誇っている。


三十代になってやっと理解したが、それでも生きていかなければならないのが生命のあり方だ。許されざることも、思い出したくないことも、間違ってしまった不可逆な選択も、やり直しの効かないリセットも、無力感に苛まれる現実も、受け止めて飲み込んで踏み台にして昇華して。言い換えはいくらでもあって、解釈は無限だ。死刑に処されるまでは。この命が終わるその時までは。それでも生きていく。それは変わりない。

他人を貶めたり貶したり罵ったり恥ずかしめてもいけない。それはよくある“いい子ちゃん”の言葉だ。現実は真面目だけいい子ちゃんでは通用しないのも紛れもない事実だ。搾取されるばかりでもいけない。

この世の全てのものは有限だ。

みな限りあるうちで都合をつけている。危ういバランスを保って。米津玄師のKICKBACKにもそんな歌詞があった。それは今も昔も違うのだろうか。大衆もマイノリティも違いはあるのか。射撃事件が増えて学校の備品を破損が減ったことが。非行が減って売春が増えたことが。これらは根拠のない妄言の憶測だが。相対的には差異はあるのか。原理的な法則だとでもいうのか。

命を奪ってはいけない理由なんてない。それは他人の、に限らず。他の生き物も、も含めて。毎日命を奪って人は生きてる。体外の熱量や時間を奪って。罵ったり売買取引をして。動物的なマウントや社交辞令を経て。経口食物連鎖を踏まえて。
許されないのであればそれに成り立つものはみな罪人だ。であれば現代人は産まれたその瞬間から不合理か。
いつから全人類、日本人はキリスト教徒になったのか。そんな敬虔な話をしていないだろ。そんな謙虚でないはずだ。そんな傲慢でも厳かでも清廉でもない。と日本人である私は感じている。泥からできた汚い肉袋であり有象無象の集合体で数億数兆の細胞の塊で原子の天文学的な確率の融合でしかない。動物の一種であり80億人のひとつにすぎない。

「悲しむから」は理由にしてもいいのではないか。
悲しむ人が、その事実が胸に刺さらない人がいるだろうか。関係者であろうと間接的な野次馬であろうとバタフライエフェクトまで想定して。
奪われたことが現実である限り施行者も被害者も傍観者も思考が奪われる。それは世界の損失だ。観測者はあなたひとりしかいない。あなたを苦しめるものは遠ざけて遮断していて欲しい。そう希う幼心は純粋な願いとは言えないか。

幼い頃早くなりたかった大人になったいま、メリットよりデメリットの高さで断念するのもいいだろう。どう影響する。遠い干渉を受ける外的な要因まで。どう波及する。他や自らの命の流れを途切れさせることは。それはバタフライエフェクトまで想定したデメリットよりもメリットが大なりか。細かに想定すれば自明の理だ、昔から伝えられた原則に真理が秘められているように。それよりも有意義なことは、動物的にも優位なことは。雁字搦めともいう。理性ともいう。支配ともいう。固定観念ともいう。仮にそこまで考えが及ぶのであれば、私たちはまだ止められる。暗く濁った行き先の更にその向こう、私たちは新たな道を辿れる。凝り固まった現実の隙間を縫う未知の自由が広がる。そう信じたい。