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「コーダ あいのうた」から考えたい当事者意識と想像力を高める方法


*映画を観てる前提で書いている記事です。ネタバレになる部分もありますのでご了承ください。

Introduction

BSで「コーダ あいのうた」がやっていたので観ました。
一応なんとなくの概要は知っていましたが。今回が初視聴。

アカデミー作品賞を獲っている本作。聴覚障碍者の家族をもつ女の子 CODA(=Children of Deaf Adults)が、歌を唄うことの夢を追いかけるまでの葛藤と成長を描いた作品。詳しくはwiki作品HPなどを参照にしてください。

(これ以降、この記事内では聴覚障碍者ではなく、Deaf People=聾者 で書きます。反対に聴力のある人は聴者で表記)

割とアカデミー賞受賞作で気になったものは観る方だけれど、上映当時は観たいという触手が動かなかった。

なぜか?
まず、ハリウッドの「マイノリティへのスポットライトを当てよう!」という思惑を感じたから。LGBTQや黒人などの人種問題へのスポットライトを当てる時期を経て、今回はDeaf People 聾者 に順番が来たんだなと。別に悪いことでは無いのは分かっているけど、押しが強いと引いちゃうタイプなもんで(;^_^A。あとそこに下駄を履かせてる感じはないのか?とちょっと猜疑的な感覚もある。「Moonlight」もゲイ&黒人のダブルマイノリティが重く感じて、観るまでに時間がかかったんですよね。

(今年は、スコセッシ&ディカプリオの「Killer of the Flower Moon」の主演女優リリー・グラッドストーンがネイティブ・アメリカンの血を引いていて、ゴールデン・グローブを受賞し、アカデミーでも主演女優にノミネートされている。主演女優賞は彼女か「Poor Thing 哀れなるものたち」のエマ・ストーンが有力候補だと思ってます(こちらはフェミニズム映画ですかね?「バービー」もだけど))

次に、単に障碍者を描いてお涙頂戴に結び付ける映画だったらイヤだなという気持ちと、障碍者の方への自身の感情の取り扱い方がよくわからないというのがあるんですね。

私自身は障碍者の方と深く関わりを持つ人生を歩んでこなかった。
最も近い存在は祖母で、彼女は離婚した祖父から暴力を受けて片耳の聴覚を失い、もう片方も加齢に伴い補聴器を付けてなんとか聴こえる状態になった。障碍者手帳も持っていたけど、大きな声でゆっくり話せば日常的なことの意思疎通するには支障はなかった。ただ慢性的な耳鳴りやメニエールで目が回り立っていられなくなるなど苦労は多かった。とはいえ後天的なものと先天的なものではやはり文化が違う気がします。祖母とは聴者としての文化は共有していたのだと思う。先天的に聞こえない場合は、そもそも聴者とは違う考え方をする場合も多々あるのではないか?と思うのです。

で、感情です。
よく障碍者を扱った映画やドラマで、「憐みの対象じゃない!」「かわいそうな目で見ないで!」とかって場面はさんざん観てきました。なのでそれは彼らにとって嫌なこと、失礼なことという知識はある。知識はあるけど未だストンと消化できていない感じ。もちろん上から目線で接するとか、わざわざ可哀想ね、なんて言うことでないのはわかる。でも憐みと思いやりの境界線には曖昧な部分がある気がして、正解の感情がよくわからないし、果たして正解の感情を持てるのか?持てるように矯正できるのか?よくわからない自分がいます。結局は多くの情報を得ようとして自らを教育していない自覚があるので、それを突き付けられるのが怖くて逃げているのだと思います。

それと数年前、近所を歩いていた時に、車いすの方がマンションに入ろうとしていました。入り口に段差があってなかなか上がれない。たまたま通りがかった私は「お手伝いしましょうか?」と声を掛けました。しかし「結構です」と即答(ちょっと迷惑そうに)。私的には障碍があるからとか関係なく(彼が生まれつきだったのか、一時的なケガだったのかも確認していない)、困ってそうな人には助けのオファーをした方がいいだろう…と思ってしただけです。余計なことを考えがちな私にしては珍しくかなり純粋にそれだけの感情からのオファーでした。

それで断られて…

あれ?なんか押し付けがましかったかな?おせっかい?
でも訊いてみないと分からないしなぁ…。
いや単純に自分でしたかったのかも?必要なかっただけとして流せばいいこと…だよね?
ありがたいと分かっていてもスミマセン、スミマセンと自分から頼んでも無いことに頭下げるのも辟易とするよねぇ…。
いや、やっぱり私の中に、イイ人になりたいという自己満足が行動原理にあるのか?
困っている人を助けたいと思う気持ちは憐み?思いやり?
憐みって全てが蔑んでることになる?9:1や8:2でほぼ思いやりだと思っていても少しでも可哀想と思う気持ちが入ってない?それが伝わるのだろうか?
それともハラスメントと一緒で受け取る方がどう思うかの問題?
そもそも困っているとか可哀想という基準、物差し自体が健常者と障碍者では異なっているのでは?全く違うのか?重なる部分もあるのか?
これは当事者と、それも複数人とオープンに話しをして、やっと獲得していけるものなのでは?

こういう感じでグルグルと考えが色々巡って、結局よくわからないまま疲れて別の思考や行動に移ってフェードアウト。この、疲れて面倒、向き合わずに放置する自分のズボラな部分という負の側面も見るのが嫌なんだと思います。

で、やっと観た「コーダ あいのうた」の感想は…

「Billy Elliot (リトル・ダンサー)」のパ〇リやん


それもパ〇った割に細部が杜撰じゃない?…も加えたい。

「Billy Elliot」はスティーブン・ダルドリー監督による2000年のイギリス映画。邦題は「リトル・ダンサー」ですが、私は原題で先に知ったので「Billy Elliot」で通させて頂きます。

昔、訪米中、映画館を探している時に、偶々道を訊いたジェントルマンがわざわざ紙にタイトルを書いて薦めてくれて観た映画なのです。それだけでも記憶に残るのに、訛りのキツいイギリス英語で、理解するのが難しいながらも私のツボ、心のウィーク・スポットに刺さって涙した、忘れられない名作です。

詳しくはWiki を読んで頂ければいいのですが、ザックリ書くと…
舞台はイギリスの炭鉱町。13歳のビリー・エリオットは父、兄、祖母と4人暮らし。母は数年前に死亡。父と兄は炭鉱で働いているが、長期のストライキの真っ最中で二人は戦っている。祖母は認知症でビリーはヤングケアラーの役も担っている。元々兄のレコードに合わせて飛び跳ねて踊ったりするのがストレス発散方法だったビリー。父親に薦められ入ったボクシングジムでボクシングには馴染めず、隣でやっていたバレエ教室に入ってみると夢中になる。父親に女みたいなことをしてると反対されるのを恐れて、隠れてレッスンを続けるビリー。彼に才能を見出したバレエの先生が後押しするも、家族は反対。その葛藤を乗り越えて、最終的に父親が付き添ってロイヤル・バレエ団の入団テストを受けるビリーは…。と言うお話。

「CODA」のように家族全員が障碍者ではないですが、おばあちゃんの世話をしてますし、家族で協力しないと生活が成り立たない状態。そのしわ寄せが子供である主人公に来ている。父と兄は体制側と戦っていて、金銭的に余裕がない。主人公にとってバレエ(芸術)が心躍るものであるとともに、ツラい現状を忘れさせてくれる救いの存在。クセのあるメンター(指導者)と出会い後押しされる。家族は最初、主人公が夢を追うことを反対するが、最終的に父親が改心して面接会場に連れて行きハッピーエンド。

「コーダ あいのうた」と被る部分多いと思いませんか?聴覚障害の要素と恋愛要素を抜けば、ほぼ同じプロット。

同じようなことを考えてる方がいるかも?とググってみると、海外でも「Billy Elliot」と比較するものを見かけたり、↓コチラのnote記事はまさに私が思ったことを的確に言語化してくださっていました。

共通点を挙げてる点や、モヤっとしたヤングケアラーについても丁寧に説明してくださっていてわかりやすい。

こちらの記事では、”バレエは女性のものと言う偏見からの脱却”と言う感じにサラッと書かれていましたが、まさにそこが「Billy Elliot」の重要なテーマでもあると思います。ジェンダーの固定概念を壊す、フェミニズム映画でもある訳です。そしてこの映画の後、ロイヤルバレエ・スクールに応募する男子が女子を上回り、それを「Billy Elliot Syndrome」と呼ばれるようになったそうです。

そして「ジャンプ」、新しい世界へ飛び込む子供達という視点。まさにそれがどちらの映画も尊いですよね。
ビリーはバレエの大きな跳躍をし、ルビーは高い崖から湖に飛び込む。どちらも新しい世界に飛び込むメタファー。
少し前に映画における水に入る意味を考えた記事を書いたので、すごくわかりやすかったです。


昔、NHkで「グラン・ジュテ~私が跳んだ日」という番組があったのを思い出しました。グラン・ジュテは「大きな跳躍」を意味するバレエ用語。番組は子供ではなく、今までのキャリアとは違う新しい世界に飛び込んで成功した女性たちにスポットライトを当てる番組でしたが。ビリーもルビーも、新しい世界に飛び込むグラン・ジュテをしていたんですね。

あと男子がバレエするというのでは、漫画「ダンス・ダンス・ダンスール」も面白くて好きです。主人公の潤平がダンスする中で、バチバチ、キラキラ、ドッカ~ンと火花?星?が自分の周りに現れ爆発して、彼のワクワクと昂まり、恍惚、ゾーンに入り、多幸感に包まれる…そういう状態を表現している。あの感じは「Billy Elliot」でも「CODA]でも、主人公がダンスや歌の表現の中で体験している状態なんだろうなと、彼らの目に宿る光で感じられる。役者がそれを体現でき、監督がそれを映像に納める。簡単そうで中々出来てる映画って少ない。この2作品は成功してる例ではないかと。だから観客が魅了されたのではないでしょうか。

「CODA」が杜撰だと感じたと書いたからにはどういうところかを書かないといけませんね。

まずはキャラや設定のつくり込みが少し雑に感じます。
両親はどうしてこんなに勝手なのか?本来の性格なのか?育ってきた家庭環境が影響したのか?そういうバックグラウンドが絶妙に分かる数分、数十秒のカットやセリフの挿入でグッとキャラに深みが出て、観客もモヤモヤせずに彼らの過去に想いを馳せたり、解像度が上がると思うんですよね。母親が祖母とわかりあえなかったというぐらいしか情報が無かった。

音楽のV先生もルビーの家庭事情知ってるのに、彼女がヤングケアラーとして苦労している可能性を想像できないのか?メキシコ移民で苦労してきたからこその敢えてのキツイ態度だともいえるけど、メンターとしてどうすれば乗り切れるかを導く、寄り添ってくれる場面がもっとあってもよかったと思うのです。なんだかキツさの方が際立って、そこまで好きになれなかった。「Billy Elliot」のウィルキンソン先生も厳しいけどもっとビリーに寄り添い、親に会いに行って説得したり、この子の才能を輝かせようとしてくれていたんですよね。

設定についても、兄レオが、ルビーが生まれるまでは自分達だけでやれていたと言ったように、ルビーが船に乗れるようになるまでどうやって漁師をしていたのかも不明。母親は漁にも出てなかったし、組合ができてからは手伝っていたけど、その前も市場にはいなかったし、何の仕事をしていたのかも不明。家族以外の聾者やそういうコミュ二ティと全く交流もないし、聴者とも関わるのを嫌がってる両親。祖父母や兄弟とも疎遠そうだし、あまりにも閉じられた世界過ぎるのもちょっと不自然。だから昼間からSEXばかりしているのか!?(;^_^A こんなに社会性が無いのに、自主販売の組合作って、そんなにすぐ成功するご都合主義。そういう設定の謎の部分を、いちいち説明せずとも、ちょっとしたセリフや場面で観客に伝えることはできる。そう言う緻密さが感じられず、おざなりのものが多かったので雑に感じたのだと思う。

そもそも合唱部入ったのはいつなのか?高校一年目?発表会を3年かけて準備するのもおかしいし、高校3年で合唱部に入って進路も決めたってこと?さすがにそれは舐めてませんか?いくら才能が物言う世界でも、そんなお気軽に受けれるものなのバークリー?まあアメリカだから入学の間口は広いのだろうけども…。

あとラストは「Billy Elliot」の方が一段上のレベルのような気がします。
「CODA」では、ルビーがバークリーの寮に向けて出発する場面で終わります。在米映画評論家の町山智浩氏によると、「CODA」の舞台の港町からボストンのバークリーまで車で一時間ぐらいの距離なんだそうです。毎週末にでも帰れる距離(お金ないから帰らないかもしれないけど)。そこまでお涙頂戴にならんでも…って感じだそうです(;^_^A。今はテレビ電話も普通にスマホで出来るし、昔ほど聾者にとっても寂しい別れでは無さそうではありますしね。でもまあずっと家族とベッタリで離れられなかった少女が、漸く親離れできたのだから感動的と言えば感動的。

しかし「Billy Elliot」はビリーをロイヤルバレエ学校に送り出した後、その数年後が描かれます。父と兄、そして幼馴染のマイケルが劇場に座ってる。有名バレエダンサー、アダム・クーパー演じる成長したビリーが舞台袖で白鳥の衣装で出番を待つ。そしてスポットライトの当たる舞台に大きく飛び出していく…。

そう、両作品とも親からの愛を受けて子供が飛び立つ。しかし「Billy Elliot」ではその愛を胸に、その愛に報いようと厳しい修行を乗り越えた姿、そして今輝く世界で活躍する姿を描いている。つまり子供から親に、受け取った愛を返すところまでキッチリ描かれている訳なのです。親子愛による相乗効果といいますか、愛を与え合うことで高め合っていける。親子関係で目指すべき姿が提示されているように思うのです。

「CODA]ではルビーが家族に無償の愛で尽くしてきて、最後に父親が応援に転じて愛を示してくれた…順序が逆な感じ。まあそもそもDysfunctional family機能不全家族だからこれが正解と言われれば、ハァそうですかと言うしかないけど…(;^_^A。

*****

コチラの方の記事も、劇中楽曲のことやCODAのダブルミーニングについて、ヤングケアラー問題、そして私がモヤっとした点なども見事に言語化されていて、私にとってはなるほどと思う満足度の高い記事でした。

で、いくつかの感想を読んでいたら、聾者やCODA当事者の意見、感想はどうなんだろうと思い始めたので、少し調べてみました。

当事者からの意見


まず私が気になったのは、

この映画はどれほど当事者の意見が反映されているのか?
当事者はこの映画をどう観たのか?

ということで、ググってみると、
ニューヨークタイムズのこの記事↓がありました。

記事内で意見を出しているのは当事者の方、つまり聾者CODA、それも業界関係者から学生まで、さらにはジェンダーも男、女&バイナリーという、より幅広い意見を拾っている。批判的な意見だけを集めてる可能性は勿論ありますが、やはりできるだけ公平性を示そうとする姿勢は日本のジャーナリズムより優れているなと感じますね。

まずタイトルに「Torn」とあるので、当事者たちには引き裂かれる想いがあるのがわかる。
どういう内容なのだろうか?興味が湧きます。大雑把な訳ですが書いてみます。

全体の意見としては、「より聾者、CODAに関する認知が広がり、聾者の代弁者がハリウッドで活躍できるようになることを望む。しかし映画は聴者視点で描かれており、聴者には響くことも聾者には全く響かないこともいくつかあったり、時には腹立たしく感じる部分もあった」ということのようです。


聾者のメディア批評家 Jenna Beacom氏(聾者キャラクターのコンサルタントなどもする人物)は…

映画には全ての賞をとって貰いたいが、多くの有害なメッセージがあることも事実で、そこに葛藤がある。そういうメッセージは出て欲しくないし、新たな誤解の元になってほしくない。

最初予告を見た時は過去の設定だと思った。ルビーが親の通訳をしているから。アメリカでは1990年にプロの手話通訳サービスの制度が出来ている。
通訳サービスがいつも利用できるわけではないし、ピンチの場面で子供がその役割をしないといけないのは理解しているが、それしか手段がないわけではないことをもっと言及しても良かったはず。通訳サービスビデオ・リレー・サービス(日本でも電話リレーサービスと言うのがあるようです)、スマホアプリ読唇術、もっとシンプルに紙とペンだってある。

聴覚障碍が当事者にも、またCODAであるルビーにも非常に重い負担のように描かれていたが、そうではない。彼らはもっと独立しているし、それをできる能力もある。

この、ルビーに頼るしか手段がないようなところは、映画全編通してモヤモヤした部分でした。そう、紙とペンがある。Jock Itch インキンタムシを医者に診て貰う場面などは、普通に筆談すればいいだけの問題だったように思う。その必要ないのにわざわざ親の性事情を娘に通訳させて、その羞恥を笑う。あまりいいジョークでもコメディでもない気がするんですよね。下品な部類。内容の下品さじゃなくやり口の下品さね。

聴覚障害がテーマになっていたドラマ「silent」。あの中でもコミュニケーションにスマホを物凄く活用していて、トヨエツが聴覚障害者を演じた「愛していると言ってくれ」からは隔世の感だなと思ったものです。
この間、たまたまやっていた「プロフェッショナル仕事の流儀」落合陽一氏の回で(落合氏はお子さんに障碍があった)、AIなどの技術が発展すればそういう部分の多くはカバーできるようになる。だから彼はそういう分野の発展に貢献したいと研究を始めたのだと仰ってました。

勿論、聴者とのスムーズなコミュニケーションはまだまだハードルはあると思いますが、昔よりは選択肢は確実に増えている訳で、それをほぼないがしろにしている家族、特に両親の姿勢はずっと疑問を感じざるを得なかった。

そして聾者が家族にとって凄く重荷として描かれているという指摘。そうなんですよね。思いっきり聴者が聴覚障碍を重荷だと捉えている考えがドーンと前面にある。聴者視点の映画というのは納得できる。確かに当事者からしたらこういう作り方は慣れていて、半ば諦めてはいる人も多いのかもしれないけども、「この映画、寄り添ってくれてるのか…?」という微妙な気持ちになるのも十分理解できる。


記事ではヘダー監督の聴覚障害へのアプローチと、映画の評価された部分も説明されていました。

ヘダー監督は聾者たちによる批判についてのインタビューを受ける予定はないようだが、別のインタビューではこう言っている。脚本執筆中に聾者のコミュニティをリサーチをし、手話についても学びCODAの通訳者を雇い、制作過程においてもコンサルタントによる助言を受けていた。
プロダクション・ノートでも、セットには3人のCODAがおり、彼らからポジティブなフィードバックがあって、自分が経験したことのない世界において、そういう反応があると安心できると書いている。

ヘダ―監督がいくつかの批評家から評価されている点は、実際に聾者がその役を演じている点手話を映画で世間に知らしめた事だと言われている。

一応監督もある程度の事前リサーチとコンサルタントを受けながら作っており、全く勝手に作ったものではないと。(まあ今時、それをしていないなんてことありえないとは思いますが…)

そして評価についてはその2点。というか2点しかないっていう痛烈な批判だとも取れます。私もぶっちゃけ、その2点と”わかりやすさ”ぐらいしか思い浮かばない。プロットは「Billy Elliot」の焼き直し、細部の設定&詰めの甘さ、聾者&CODAからの指摘の多さ、ある意味、気になる点の方が多かった。

次に聾者でノンバイナリー、34歳Leala Holcombの意見。

聾者の経験は複雑である。多くの聾者は聴者の環境で育てられる。手話をなかなか学べなかったり、言語体系自体を奪われていることもある。なので彼らの中には通訳者に関する権利を有するという知識さえない場合もあるし、そもそも英語を習得できていない場合もある
よって「CODA」は観るのが辛い部分がある。なぜなら明らかに聾者によって書かれたものではないから。

幾つかのシーンで涙することはあったが、ドラマに感動したからではない。
たとえば父フランクがルビーの喉に手を添えて、彼女の歌がどんなものだろうか知ろうとするシーンがある。聴者にとっては感動的なシーンかもしれないが、聾者にとっては全く意味をなさない。携帯のバイブレーションと同じ。フランクが娘の声がキレイかどうかなんてわかりようがない。逆に聾者を話せるようにするセラピーでする行為を思い起こす。それは大抵失敗に終わり、聾者にとってはトラウマだとして知られていることだ。

聴者に育てられる聾者、聾者に育てられる聴者(CODA)。この生育環境が与えるそれぞれへのインパクト、ココが案外置き去りにされているように思いました。劇中でもルビーは昔変な話し方だったというだけ。それは言葉を話し始める時期に音声言語で育てられてこなかったから。両親が音を聴こえる娘に音声言語を習得する機会をちゃんと用意してこなかったということ。この子は音のある世界で生きているんだという想像力があれば、赤ん坊の時から積極的に聴者と話す機会を持たせておいても良かったはず。ある意味、発達、教育の機会を奪っていたということであり、ある種のネグレクトだったともいえなくもない(聴者側からの見方ですけどね。聾者の親にとっては音声言語の必要性は聴者ほど感じていない場合もあるので一概には言えない)。それなのに利用できるようになると手話通訳として依存しまくる。聾者としての環境で子供を囲い込みたかったのなら、この部分は大いなる矛盾になる。
ヤングケアラーとしての問題もだけど、この家族はかなり機能不全家族で、多くの根が深い問題を抱えている気がしてならない。それを放置しながら、いい話風にサラッとまとめようとしてるのでモヤっとするんですよね。

Holcomb氏が指摘しているように、英語が習得できていないとまでは言わないが、両親ともに知性と想像力の欠如を感じる場面が度々ある。それは彼ら自身の問題かもしれないし、はたまた両親の幼少期にはまだまだ教育自体を受ける機会が限定された環境があったのかもしれない(とはいえ字は読めるんだから本で勉強はいくらでも出来そうなんだけど)。父親は漁師の家系だから学は必要ない!っていう教えの弊害かもしれない。そういう彼らの育てられ方にも思いを馳せさせる描写を挿入することで、聾者やCODAの生育環境にももっと目が向けられる様に出来たのに…とは思う。

喉に手を当てるシーンについて、聴者と聾者の感想は随分違う印象。Xのポストでは感動している人が多い印象でしたが、あれはどこに感動したのだろうか?私は感動と疑問が半々だった。喉の振動はやはり振動でしかなく歌声ではない。振動で歌詞を読み取ることはさすがに無理だろう。熟練したらモールス信号的に振動と単語の関係を結び付けられるかもしれないが、それでも歌になると抑揚がついて別物になる。父フランクはじっとルビーの顔を見ていたから読唇術で理解しようとしていたのかもしれない(読唇術が出来るという前振りは一切なかったが)。しかしそれでも歌声ではなく、振動、ビブラートの強弱の連続でしかない。

なので、あのシーンでフランクが単純に歌というものを理解したと思って感動したというなら疑問しかない。Holcomb氏が言うようにキレイな歌声かどうかは分かりようがないから。しかし、愛する娘が、体を一生懸命振わせて自分に歌詞の内容を伝えようとしてくれている、音声をリズムに乗せてメッセージを伝えるという音楽文化の本質と、その行為は尊い。それをフランクが理解し感動しているのでは?と捉えられなくもなかったので、その二人の相手を想う気持ちが繋がった瞬間、言葉の壁を越えたコミュニケーションが成立した瞬間と解釈して、私は感動しました。

Beacom氏にもHolcomb氏にも歌が好きな子供がいる。彼らが子供たちの歌がどのようなものか知るためには、単純に聴者にどういう感じなのかを訊くだけ。

ルビーが18歳ぐらいになるまで娘が音楽が好きなこと、船の上でいつも歌っていることは知っていながら、ま~ったく関心もなかった両親。いくら実際の歌が聴けないとしても、関係が密接な仲良し家族設定なら、彼女がどんな歌詞が好きなのか?とか、好きなジャンル、それはどんな音楽なのか?とか、もっとコミュニケーションとって関心を示していても良かったのにとは思う。とはいえ、子供の趣味の話を親が詳しく訊いてくるのって鬱陶しかったりするし、親も本当に興味がない場合もあるし…。

とにかく、この家族のルビーに対する想像力と関心の欠如は、ルビーにとって多くの問題の原因であり致命的。

自身がCODAであり聾者に関する著者でもある Lennard Davis 氏は次のように言っている。

聾者でも音楽を愛する人はたくさんいるのに、彼らが音楽を楽しめないというシーンが何度もハリウッド映画で出てくる。それは彼らが音楽を楽しめないという偏見を植え付けるし、そもそも多くの聾者は聴こえないということにそこまで執着していない。これは映画の中の「フェイク問題」だと指摘する。

そういう問題よりももっとCODA自身の本当の問題を取り扱って欲しかった。例えば、危機の時に親を呼んでも簡単に助けて貰えない、または親の通訳で腹立たしかったり精神的、感情的に苦しい状況に追い込まれることがあることなど。
映画では、両親がインキンタムシになりルビーが通訳として医者とやり取りをするシーンがある。これが笑い話となっていたが、実際の医療通訳の現場では祖父の死を母に伝えないといけなかったり、もっと悲劇的な要素の方が多い

聾者でも音楽を楽しんでる方もいる。果たしてどういう楽しみ方がメインなのだろう?
聴覚障害の種類によっては骨伝導などで音楽を楽しめる方もいるだろうけど、そうじゃない場合はどうするのだろうか?ググってみると、先述した落合陽一氏達が開発した「LIVE JACKET(服にスピーカーが埋め込まれ、聴覚・振動を通して体全身で音楽を感じ取る)」で楽しむ方法なども生み出されつつあるらしい。単に風船を手に持って、そこから伝わる振動でコンサートを楽しむ方法なんかもあるようですね。父フランクもラップの振動を楽しんでましたし、やはり振動として楽しむのが主流っぽいですね。

聴者が振動で音楽を楽しむと、果たしてどれくらいの満足度があるのだろうか?通常と比べても8割くらいの満足度があるなら、それはそれで楽しい気がします。LIVE JACKET着て体験してみたい。

「フェイク問題」…確かに、ルビーの家族は音楽を楽しむ素養の無い家族=聾者は一般的にそんなもんなんだろう…とは思ってしまっていた。こうやってメディアによって刷り込まれていること、想像以上に沢山ありそうで怖いですね。

CODA自身の本当の問題。これも家族に通訳として使われるのが最大の問題として描かれていたから、その他の問題についてはどんなものがあるのか?
助けを呼んでも来てくれない…聾者やCODAは助けというか、用事ある度に近くまで行かないとダメなので、出来るだけ家族で近くにいるように心がけているとかあるのだろうか?それとも現在はスマホでメッセージを送ればいいから解放されたのだろうか?聴者にはわからない聾者やCODA独自のあるあるがありそうです。

34歳イギリス人のCODAであるAdrian Bailey氏は、こう付け加える。

このシーン(ルビーの医療通訳シーン)は不快だった。数年前に父親が救急救命室に運ばれ、父親に死ぬことを通訳しなければならなかったから
CODAの子供が、そういう可笑しかったり気まずい状況での通訳に追い込まれることを、その当事者のコミュニティ内で笑い合ったとしても、彼らの苦労を理解できない聴者の世界に晒して、そこで笑われるのは一線を越えていてOKではない。

しかしヘダー監督に怒ってるわけではない。特に部外者には聾者やCODA、聴覚障害にまつわる文化を内包する映画を作るのは難しいからだ。
だからハリウッドには挑戦し続けて欲しいし、聾者やCODAのクリエイターへの援助を促して欲しい。

そうですね。CODAの脚本家が書いた映画、是非観てみたいです。それこそ先述した、最初に教えられる伝達手段が手話で、音声言語発達が遅れる経験がどういうものか?とか、聴者が想像しえないものを多く提示してくれそう。自分達の想像力の欠如を思い知らされるとともに、そういう感覚があるのか?と目を開かせてくれるエデュケーショナルで興味深い作品になりそう。

聾者の学生で脚本家志望のCaleb Robinson氏も同意する。

聾者がまず書かないシーンは、父フランクがルビーを送り出す時に「GO]と声に出して言うシーン
声を出すことが手話より重要であるかのように見せているし、ここまで二人は手話でのコミュニケーションしかしてこなかったわけで(彼らの第一言語は手話。別にルビーの中で発声言語が手話より上位であるという感覚がないはず。そう育っているのだから)、ある意味キャラ崩壊を起こしている。

全体として「CODA」は悪くないし、多くの知り合いの聾者もサポートしている。なぜなら聾者が演じ、手話も広めてくれているから。でも単に批判し辛いだけかもしれない。聾者に関する映画は殆どこれほど高いレベルの評価がされることがなく、誰も叩きのめしたいわけじゃないから。でももう少しプッシュしてもいい気がする。聴者ではなく聾者自身が自分たちのことを語り始める時期が来たんだと思う。

先述の父フランクがルビーの喉に触れて歌を感じる場面と、この「GO」と声を発した場面で感動したという意見がXや感想記事でも多かった。でもロビンソン氏の説明でハッとさせられました。ここにも聴者側からの一方的な思い込みがあるということ。その思い込み故に感動してるという、残念な現象が起きている。

聴者である多くの視聴者は、ルビーのことを聴者ワールドに属する人物とみなしているから、父フランクが聴者ワールドのルビーの第一言語である音声言語で「GO」と言った彼女に寄り添ったと考え、親の愛!素敵!…と感動したのではないだろうか?

しかしルビーは言語的に見ると、音声言語も手話言語も同等で(なんなら先に手話言語を習得してる可能性が高く、音声言語より手話言語の方が得意な可能性も高い。なぜなら聾者ワールドがメインの生育環境だったから)、例えていうならバイリンガル。父親と英語でずっと会話してきて、急にあの場面で母親の言語の日本語で「行け!」って言われても、なんで?となる感覚に近いのではないだろうか?手話こそが彼らにとって歴史も愛着もあるコミュニケーション方法。彼らにとって音声言語でコミュニケーションすることはそこまで価値がない。それを価値があると思うのは聴者で、確かに無意識だけど傲慢な気はします。これは当事者に説明して貰わないと気付けなかった点。「CODA」が聴者視点の映画だという意味が一番ストンと腑に落ちました。

コーダ当事者で、ろう者・聴者・コーダ混合手話バンド『こころおと』の代表でもある武井誠さんの記事↓を読むと、さらにCODAとして、どう育ったかの経験が語られているので興味深いです。

やはり音声言語より先に、2歳まで手話言語で育てられたとあります。外で音声会話を耳にしても、それをコミュニケーション手段として認識していなかったと。さらに父親が日本人で母親がアメリカ人のハーフだそう。この場合は日本手話JSLアメリカ手話ASLは別物だから、2種類覚えたのかな?手話を二種類、音声言語も日本語と英語の二種類、計4カ国語話すクァドリンガルみたいなかんじだったんですかね?スゴイ!!けど大変!!

妹は兄がいたから日本語が第一言語になってたり、テレビが無音だったとか、聾者の友達に音楽を楽しめるように努力したりというエピソードも興味深い。

でも彼も「おい待て、タイトルはコーダだよな、じゃあコーダを起用しろよ! 主役は俺たちだぞ!」と、もっとCODAを中心に話を書いて貰いたかったと言っている。CODAが二つの世界のはざまで悩むところは、聾者よりもミックスルーツの人たちと近くて、より共感できるのではと。なるほど…この情報を知っていたなら、彼氏になったマイルズをミックスルーツキャラに私だったらしたかな。音楽好き以外にも共通点、共感ポイントが生まれて、より二人が惹かれ合うことに納得感が増しますもんね。同じ苦労をしてるって連帯感増すのよ(笑)。

「コーダと言う存在をもっと知って欲しい。彼らの言語獲得の課題日本にも数十万人と言うCODAがいること。彼らにももっと理解とサポートが必要。福祉や多様性が進んでいると言われる欧米なのに、映画では手話通訳が一切出てこなかったのは恐怖。ミックスルーツの子も同様だけど、子供が通訳の役割を果たさないといけなくて将来の選択肢が狭まってしまう可能性を考えて欲しい」

ニューヨークタイムズにおける当事者の方々の意見と重なる部分がありますね。子供が外国語通訳を担うのは、最近なら通訳アプリで随分解消できるケースもあるんじゃないでしょうかね?手話の方も早く技術革新が進んで、子供が犠牲にならない時代が早く来るといいですし、それはもうそう遠い未来ではなさそうな気はします。

ろう者と聴者の世界を行き来して、「こっちの世界にはこんなものがあるんだよ」と伝えたり、つなげたりする。聞こえる国の大使であり、聞こえない国の大使でもある」

二つの世界
…ルビーが歌ったジョニ・ミッチェル「Both Sides Now」Both Sideがこの二つの世界なんだな~と思いながら聴くと、なんだかより沁みますよね。


やはり当事者の意見を見てみると、目からウロコの知らなかった、気付けなかった世界が見えてきました。映画のネームバリューに押されて控えるのではなくて、率直な意見を出してくれた方々に感謝です。

私ならこんな映画が観てみたい


「CODA」を観て私的に印象に残ったのは…
発表会でドンドン音が消え、無音の世界を体験させてくれたシーン。
もう一つは、母ジャッキーがルビーも聾者であってほしいと願ったという場面。なぜならこの子と分かり合えないかもと怖かったからだと。

無音の世界と言うのをもっと体験してみたいと、私は普通に好奇心が湧きました。自分が想像しない場面でこんなにも音に頼っていたと気付かされたり、発表会のように普通に音を楽しんで当たり前の場面が全く違う風景に見えたり、カルチャーショックというか、彼らが感じている世界を疑似体験して、どういう感想が自分に湧くのかを知りたいなと思ったので。

母ジャッキーの言葉も聴者からしたらヒドイこと言う毒親!って思われるかもしれないけど、それは聾者の世界を下に見てるから出る感想という気はします。母ジャッキーにとれば、聴者の世界は聾者と同等の異次元程度の感覚なのですから。
この場面の肝は、子供と分かり合えないかもという恐怖だと思うんです。これは聴者も聾者も関係なく、全ての親が持つ恐怖ではないでしょうか。ここにフォーカスすれば、聾者もCODAも描きつつ、聴者にも強く訴えれる作品を作れる気がします。

たとえばで考えるなら、

聾者の母とCODAの娘の物語。彼女たちがそれぞれ生まれたところから物語はスタートする。映画は母親視点、娘視点を交互に場面転換しながら進む。

母親は物心ついて、聴者の親とどうやってコミュニケーションを取っていったのか?手話にも赤ちゃん言葉的な段階があるのか?など、子供が感じている無音の世界を映像で教えて欲しい。そして親たちがどういう態度を取っていたのか?それに対してどういう感想を持ったのか?(←この感想が、後に娘の子育てにどう反映されているか、観客は見比べながら観ていける)

一方のCODAの娘の子供時代。こちらは先ほどの武井誠さんのようなCODAあるあるの実体験を挿入して、これまた観客に疑似体験させて欲しい。頭の中で浮かぶママ(母)、ダダ(父)という概念を口で音に出して言おうとはならない感覚とか。聴者家庭では想像もつかない不思議な感覚が山ほどあると思う。それらを成長を追って描いて欲しい。

母親の方は親との壁を感じたエピソードや、初めての恋愛、就職、結婚、出産と早めに進んでいき、母親視点での子育ての部分にも進んでいく。そこで先ほどの娘視点の場面での、母親の心情はこんなだったのかと観客は答え合わせをしていく。

そして娘がルビーのように思春期や旅立ちの時を迎える時期、二人は大きな衝突を経験する。そして話をする中で、いかに相手の見方、考え方を想像して、良かれと思って頑張っても時には上手くいかず、苦しいことがいっぱいあったかを素直に語り合う。母は聾者であるから殊更分かり合えないのでは?と恐れていて、過剰すぎたり過保護すぎたり、娘を困らせたこともあったことを詫びる。分かり合えないなら分かり合えるように、もっと相手の立場、状況、考えを想像して、都度コミュニケーションを取って理解を深めていくことが大事だと確認し合って仲直り。そして娘の夢、やりたいことを応援、後押しして送り出すという結末。

多くの理解し合えない親子関係。どちらもが歩み寄り、相手のことを想像して理解しようとすること。それによって健全な関係を築いていきましょうと言うメッセージ。親子関係だけに留まらず、人間同士のコミュニケーションにおいて、相手のことを想像する。その想像力の大きさ、広さがあれば、どんな壁だって越えられる…そんなメッセージ、どうでしょうか?

「CODA」で一番気になったのは、両親がルビーの心情を想像することを全くしないことでした。それに娘が好きなもの、娘の学校生活、スケジュールさえも無視して自分たちの都合に合わせようとしてくる。なんて想像力の無い親なんだとゲンナリ。だからこそ、想像力とコミュニケーションの大事さを伝える物語が観たい。

ジョン・レノンも「Imagine」で想像力の大切さを歌ってますからね。
想像力があれば World Peace!! 問題解決の第一歩!

ちなみに「Peace(平和)」のアメリカ手話ってピースサイン✌かと思ったら全然違いました(;^_^A。知りたい方は↓こちらを参照。

想像力を鍛える方法6選

最後に、想像力を豊かにするにはどうしたらいいのかな?と思ってググったら出てきた方法を載せておきます。

  1. まずは相手目線で考えてみる

  2. 自分と違う価値観の人とも積極的に交流

  3. 旅行・引っ越しなど、生活環境を変える

  4. 仮説 → 検証を心がける

  5. 小説やエッセイをたくさん読む

  6. とにかく普段やらないことに挑戦してみる

あ~確かに、ルビーの両親はやって無さそうなことばかりな気がする。そりゃ想像力の足りない親になるわ~。視野を広げるって大事ですね。

最近は円安で海外にも行きにくくなりましたが、老若男女、日本の価値に縛られ過ぎないため、または日本の価値を客観視するためにも海外に滞在することはおススメです。そういうカルチャーギャップを経験することで、自分とは違う属性の人たちへの想像力も養えます。それは私自身の経験から実感します。ただ犯罪も多いのでくれぐれもお気をつけて。窃盗、詐欺、各所トラブル、人種差別、色々あります、ありました(苦笑)。その度に悔しさで寝れないこともありますが、それは成長できるきっかけでもあったりします。

私は今回この記事を書いたのをきっかけに少し「聾文化」に興味が出たので、図書館で「ろう文化」案内 という本を借りてきました。どういうカルチャーギャップがあるのか?読むのが楽しみです。

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ということで、「コーダ あいのうた」の私的評価は…

星☆10点満点中…6.5!!(キビシィッ!!←財津一郎風)
映画としては嫌いじゃないしいい映画だとは思うけど、
独創性をあまり感じないし、当事者の意見はあまり反映されて無さそうだし、ツッコミどころが多いし(マイルズは大して歌上手くないよね?普通だよね?とかw)、結局母親はまったく変わって無さそうでモヤモヤが解消しないし、ルビーがいなくなってあの家族がどうやっているかも不明だし、減点せざるを得ないことが多すぎる。

アーダ、コーダ言いまして、失礼致しましたm(__)m。

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