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[未亡人の十年]_special あの日の後悔から生まれた未来

わたしはこの春、通信制大学の心理学科に編入学しました。
2年間で卒業し、大学院に進学するという計画です。
グリーフケアの研究に携わり、将来は公認心理師として実践の場に立ちたいと思っています。

しかしながら、心理学は初学なうえに、年齢は50代。
記憶力の衰えに絶望を感じながら、あたらしい分野にチャレンジしているのです。

正直、ここにいたるまで、何度もくじけそうになっています。
それでも、過去に大きな失敗をしてしまったときの<後悔>がわたしの背中を押してくれています。

いまのように前向きな学びへの気持ちが湧いてくるまでには、十年もの月日が必要でした。そして、そのうちの5年間はほぼ寝たきりで、ひきこもりの生活でした。

<後悔>と書きましたが、その5年間ははっきりいって陰惨なものでした。無気力でありながら、特定の人物を憎むような日々を送っていたのです。

不毛な日々でした。
でも、いま考えるに、自分には必要な時間でもありました。

ずうっと考えてきました。
わたしはどこでしくじったのか。
なにを失敗してしまったのか。
今回はそれについて考えながら、書いてみようと思います。
(#あの失敗があったから というコンテストのお題に刺激されたのです)。

東京でひとが死ぬということ

思えば、それまでの自分は仕事と仲間に恵まれ、子どもを持たないアラフォー女性として、充実した生活を送っていました。

それが一転したのは、夫の死がきっかけでした。
自宅近くに構えた仕事場で徹夜で仕事をしていたときのことです。
死の報せがメールで届きました。
冬場のお風呂場でヒートショックを起こして亡くなっていたところを、会議に来ないことに不審を抱いた職場の同僚たちによって発見されました。

わたしが夫の死を知ったのは、なんと、死後一日経ってからでした。
たまたま夫の母親とわたしが同姓同名であったため、警察から夫の実家に連絡が行ってしまいました。そして、夫の家族はわたしに連絡をしてきませんでした。
困惑した会社の同僚から連絡があったのが一日経過してからでした。

「あなたは仕事のために息子を捨てた」
そのような理屈で、夫の母親から理不尽に恨まれていました。
「あなたが仕事をしていなければ息子は助かったのに」
葬儀場で何度も何度も言われました。

夫は働き盛りの46歳で、昇進もし、ご両親にとってもこれからというときの頼もしい存在であったのだろうと思います。

しかし、実際の夫は、過労によるパニック障害と不眠に苦しんでいました。
「しばらく自由に暮らしたい」
夫の希望で、わたしは自宅を離れて仕事場を借りることにしたのです。

ご両親にとっての夫は「聡明で健全で仕事の出来る頼もしい息子」でした。
そんな彼らに離れた理由を言っても信じないでしょうし、なにより過剰に心配されることが夫の状態にはよくないと判断し、誰の耳にも入れませんでした。

そのような事情はともかく、わたしに連絡がきたのは死後一日経ってからでした。
そして、状況に追いつこうと必死になり、義妹の携帯にようやく連絡がついたときには、自宅近所にある警察署の遺体安置所に夫の上司や義両親たちが集まっていました。

そして、以下のようなやりとりが行われました。
このやりとりのなかに、わたしの最初のしくじりが含まれています。

(メモからの抜粋です)

「おひさしぶりです。これから警察の車で、監察医務院に向かうのであまり話せません」
 義妹はよそよそしい声で言った。
「知らなかったのですが、東京で医師のいないところで亡くなると、監察医務院というところで行政解剖をしなくてはならないそうです」
 義妹は説明してくれた。
「わたしもいまからそちらに行きます!」
 思わず言っていた。
「いえ、来なくていいです」
「いえ。すぐ行けるので、すこしだけ出発するのを待ってくれませんか」
「いえ、もう出発するので。行政解剖は時間が決まっていて動かせません。遅れることができないんです」
「それでは、解剖の場所に直接行きます。追いかけますので場所を教えてください」
「ほんとうにお気遣いいただかなくてもけっこうですよ。場所は大塚です」
 押し問答を繰り返した末に義妹は言った。

 場所を教えてもらえてホッとした。会話にディテールが出てきたことで、すこしだけ気持ちを緩めてもらえたような気がしたのだ。
「じゃあ、大塚の・・そちらで合流できませんか?」
 わたしは提案した。
「でも・・・解剖は予定が変更できないくらいきっちり組まれていて、1時間で終わるそうなんです。そのあと、わたしたちと一緒に葬儀場に兄を移送します。移送費は別途請求されます」

場所を教えてもらえたことですこし勇気が出ました。
そして、わたしはすぐさまアタマの中で、合流するために必要な時間の計算をはじめていました。

自分が現在いる場所を考えると、監察医務院まで2時間以上かかるな・・・。

雑誌編集者時代に上司からきびしく仕込まれていたクセです。いまでもなかなか抜けません。無意識のうちに、曜日や時間帯、渋滞の具合、交通手段など、移動にかかる時間をぱぱっと計算してしまうのです。

その結果、このときはじきだしたのは、
「どう急いだとしても、監察医務院では合流できそうにない」ということでした。

「すれ違ってしまうと思うので、次の葬儀場のほうで会えませんか」
 わたしは言った。
「できません。わたしたちは昨日からのことですっかり疲れ切っています。とくに高齢の両親には精神的な負担をかけたくありません」
 義妹は言った。
「土下座でもなんでもしますから、遺体に会わせてください!」
 わたしは思いがけず叫び、ごり押ししていた。

土下座というワードがおもいがけず自分の口から出てきてほんとうに驚きました。が、おかげで義妹はしぶしぶでも了承し、わたしたちは葬儀場で合流することになったのでした。

わたしは安堵しました。
が、このときの義妹との会話がもとで、その後のわたしは思いがけず酷い目に遭うことになるのです。

「お義姉さん、遠いから来たくないんだってさ!」

義妹は電話を切った後、ご両親や夫の上司のいる場所に戻って、そのように吐き捨てたのだそうです。

義妹のその言葉は、その場にいた関係者すべての心証を悪くし、のちのちまで響くことになります。

そして、当人であるわたしが彼女の発言を知るのは数ヶ月後のことでした。
まあ、知れただけでもマシなのかもしれません。

驚いたのは、こんなに酷い発言をしたことにされていても、その後のわたしの言動で義母の心証が変わり、信頼を得られたことでした。

それはわたしが、夫の遺体が葬儀場の安置所にたった独りで置かれると知って、居たたまれず、ひと晩付き添うと申し出たからでした。
やり直せるチャンスが与えられて、人間捨てたものではないと感じました。

しかし、もっと驚いたのは、友人たちからの反応でした。

「あんたってほんっとに要領が悪いよね」
複数の友人たちから言われました。
「自分なら、とりあえず大塚に向かいま〜す、って言っとく。それで、もちろん監察医務院には向かわないで、てきとうに途中で電話入れながら詫びるわ。大急ぎで向かってたんですけど間に合いませんでした〜、ってね」

むしろそれが相手に無駄な気を遣わせないですむ、人間味のある対応なのではないか、と友人たちは言うのです。

わたしは・・たしかに、要領は悪いし、生きかたも不器用です。
しかし、口先だけ、とりあえずの誠意をみせておけば問題なかったのでしょうか。

いずれにせよ、わたしは・・・ご高齢なうえに大病後で体力の無いご両親を気持ちのうえだけでもハラハラさせ、お待たせすることなんて考えられませんでした。

それって人間味がないことなんでしょうか。
わたしにとっての誠実さは「要領が悪い」のでしょうか。

いずれにせよ、義妹は悪く受け取ったバージョンの要約を伝え、関係者全員の心証を悪くしたことは事実です。

しかし、不思議なもので、このとき起きた齟齬の経験により、義母の気持ちがかえってわたしのほうへと近づき、義母から毎日のように電話がかかってくるようになりました。

「ご家族どうし、かなしみを慰め合っているのだろう」
わたしはそのように、ご家族をうらやましく見ていました。
ところが、実際は違いました。

「いつまでも落ち込んでないで立ち直ってよ」
義母は義妹からそのように叱咤されるようになったと訴え、義妹が会社に行くのをみはからって、わたしに電話をかけてくるようになりました。
「あなたとならかなしみを分かち合えると思って」
義母は言うのです。

義母は電話で、何度も何度も息子の死の連絡を受けてからの気持ちの流れをわたしに話してくれました。それは何度うかがっても臨場感があり、かなしみが胸にせまり、泣けるものでした。

「可愛いかただな」
毎日話すようになって、知りました。
考えることが可愛らしくて、わたしと同じような不器用さがありました。
話しているうちに、義母が同い年の女の子どうしのように親しく思えてきました。
それまで親しく話したことは一度もありませんでしたが、夫の死をきっかけに気持ちが近づいたように感じられてうれしかったのです。

そのときの電話で、彼女がわたしの誕生日にお赤飯を炊いてお祝いしてくれていたことを知りました。わたしは実の母親から誕生日を祝ってもらったことが一度もありません。義母がわたしに言わずに、生まれてきたことをこっそり祝ってくれていたというこまやかな心根にとても驚き、感じ入りました。

「老後の面倒も見てくれないかなあ」
そんなことまで言われるようになり、こころが近づいたように思っていた矢先、義母から報告を受けました。
「お墓と仏壇を買ったから、お金を振り込んでちょうだい」

いきなりでびっくりしました。
「順番が逆になっちゃったでしょ。息子が建てたってことにして、お墓に名前を入れたいのよ」
義母は言いました。

言われなくてもお墓は相談の上で・・と思っていたのですが、なにしろ事前に相談がなかったことや、ご自宅に置く仏壇まで勝手に購入していたということに驚いてしまいました。

「それは相談してほしかったです」
申し上げると、義母は激しく憤りました。
「仲間うちで、子どもと夫を両方亡くしたひとたちがいるけど、子どものときのほうが断然かなしかったってみんな言ってるわよ。あなたには子どもがいないから、親の気持ちがわからないのよ! あなたなんか、夫を亡くしただけじゃないの!」

わたしは胸が苦しくなり、電話を終わりにしてもらいました。
しかし、翌日も翌々日も同じ時間に義母からの電話が鳴り続けました。
ある日、ようやっと電話を取ることができたのですが、動悸が酷く、呼吸ができなくなりました。
「身体の調子がよくないので、しばらく電話でお話しはできないと思います」
そう義母に告げるのがやっとでした。

「かなしんでたなんて想像もしてなかった」

このとき、わたしの現実への対処の容量はいっぱいになっていました。
ただでさえかなしみの大きいなかで、死後の手続きが押し寄せていました。
ひとが亡くなれば、役所だけには限らない手続きがたくさん待っています。

カード類を止めることひとつにしても、クレジットカードだけでなく、TSUTAYAやら通信契約をしている業者、自動車保険・・・あとからあとから出てきます。携帯も本人以外で行う解約は死亡確認の提出が必要でした。解約のお願い電話をかけるたびに「暗証番号がないと停止できない」などとたらいまわしにされることも多かったです。

たらいまわしにされているとき、保留の音楽を聴きながら涙が出ました。何度も亡くなったことを担当者に告げては、「彼がいないこと」がリアルに突きつけられるのです。
グリーンスリーブスのメロディが鳴っている途中で、「どうしてこんな陰鬱な曲をひとが待っている間に流すの?!」とかなしみが極まり、切ってしまったこともありました。

義母とのやりとりは、このような日々の、押し寄せてくる手続きのなかで行われていたのです。

でも、わたしが手続きに苦しんでいることは彼女には言えませんでした。かなしい思いをさせるだけだと思っていたからです。そして、意外なことにこのような日常のリアルなかなしみについてわかってくれたのは義妹だけでした。

告白すると、家中のあかりが消えていきました。電球が次々に寿命を迎えても、夫が最後に替えてくれた電球なのだと思うと、あたらしいものと取り替えることができなかったのです。

うちの照明はその頃はまだ、LEDではありませんでした。
「電球がLEDだったら、わたしのこのかなしみも先延ばしにされたのだろうか」
テクノロジーがはじめて優しいものに感じられました。

やがて、家中のすべての電球が切れたときには、わたしは外に出られなくなっており、友人からのメールにも返事ができなくなっていました。

連絡がつかないことを心配して訪ねてきてくれた友人が、玄関先に入るなり、夜なのに家の中が真っ暗であることに驚愕していました。

そうして、友人が義母に連絡を入れてくれました。
「旦那さんを亡くして、彼女がどんなに落ち込んでいるか」
わたしがほぼ寝たきりになって生活が停滞しているようすなど、義母との間に立って話をしに行ってくれました。

「知らなかった・・・」
義母はまず、そう言ったそうです。
「落ち込んでるのは自分だけだと思っていた」と。
「彼女がかなしんでいるなんて想像もできなかった」と。
申し訳なさそうに謝っていたということを聞きました。

「でも・・・お義母さんはふつうのひとなんだと思う」
友人は報告のあとに言いました。彼女はテレビの構成作家をしており、多くのかたたちの生活や家族に接し、話をきいてきたひとです。

わたしには、このときの彼女の感想がとても身にしみました。
「ふつうなんだ・・・」
すっかり拍子抜けしました。
「うん。ふつうだよ」
彼女は言いました。
「これまで母親である彼女のかなしみを考えて、自分がかなしいってことは表立って主張しないように気を遣ってきたんだけど・・。でもさんざん泣いてきたし、それでもかなしみはあのひとにはまったく伝わらず、わからなかったっていうのかな・・・」
脱力しつつわたしがつぶやくと、
「うん。でもね、ほんとうにそういうひとは世の中にたくさんいると思う」
友人は言い切りました。

いまになって思う、義母のかなしみについて

思うに、他者に自己申告で「かなしんでいる」と言うのは妙な感触があり、違和感を覚えます。かなしみは取り出してどれだけの量なのかを見せることはできないのだし、かなしみくらべなどしたくありません。感受性、感じかたの違い、感じる大きさや方向などの個性もあると思っています。

でも、大事なひとを亡くしたのに、「かなしんでいると思われていなかった」という事実はその後のわたしを大きく動かしました。

かなしみについて、グリーフケアについて、学んでみたいと思ったのです。

<グリーフ>というのは<悲嘆>と訳されることもある、なにかをなくした深いかなしみのことをいいます。なくしたのはひとかもしれないし、ものかもしれない。いまのコロナ禍では、安全な社会という常識がうしなわれていますが、そのかなしみもまたグリーフです。

かなしみの表出はさまざまで、怒りとなって出てくるものもある。感情が麻痺してしまってなにも考えられなくなったり、抑うつ状態になったり、時期によっても変化していきます。

なかには他者が気づけないほどの深いかなしみもあると思います。
それでも、誰かが誰かのかなしみを、なかったことにすることなど、できません。

夫を亡くしてから、わたしは5年ほど、眠れませんでした。薬を処方してもらってもことごとく効きませんでした。毎日、気絶するようにして意識が途切れ、2時間ほどの睡眠をとっていました。ひきこもっていたのだから眠り放題できたはずなのですが穏やかな眠りは訪れず、葬儀の頃のフラッシュバックもあって、ただただ毎日が苦しかったです。

そのような苦しみのなか、時折、義母と電話で話していた会話がよみがえりました。
「わたしに余裕がなくて、彼女のかなしみに寄り添えなかった」
たとえはじめのうちに自分に余裕がなくても、一緒にいて寄り添い続けることができたのではないだろうか。

義母にできなかったことへの後悔から、わたしはグリーフケアの講座に通い、書物や論文を読みました。自分のかなしみと向き合うためにカウンセリングを受け、文章で記録を残しました。

そうして、縁あって、ご遺族のグループケアを手伝うようになりました。喪失のいたみを抱えるかたたちが集まって語る会を支えるファシリテーター見習いです。

グループケアでは、いろいろな立場のご遺族のお気持ちをうかがう機会をいただき、家族には言えなくても他人には言えるのだという心証がすっとこころに入ってきて、義母がわたしに電話をしてきてくれたことを思い出しました。

同時に、「ほかのひとは自分のようには深くかなしんでいない」という怒りにも接しました。そして、怒りもまたかなしみから発せられている感情なのだと感じました。

かなしみは取り出してくらべられない。見せ合うことが出来ない。
同じひとであっても、そのときどきで心持ちは異なります。
喜怒哀楽、虚無、さまざまなお気持ちとなって語りが出てきます。

そして、遺族どうしの出会いによって生まれる喪失の語りは、誰ひとり欠けても同じものにはならない、一度きりのセッションのようなものです。そこで語られるお気持ちに愛おしさを感じます。

思えば、義母とわたしは縁あって家族になったはずなのに、夫という登場人物がひとりいなくなっただけで、いまでは解消できない距離が出来てしまいました。

義母の語りに癒やされていたこともありました。
穏やかに時を経て、お互いが知らなかった彼の思い出話もできたはずでした。
でも、現実として、わたしたちの悲嘆はすれ違ってしまいました。

あの日。
わたしは自分のかなしみに足を取られ、彼女から怒りという形で出てきたかなしみを、まるごと受け止められませんでした。
その失敗は深い<悔い>としていまものこっています。


・・・すっかり話が長くなってしまいました。

冒頭で述べたように、いまわたしは通信制大学の心理学科で勉強をはじめたばかりです。この先は大学院に進んで、グリーフケアの実践的な研究がしたいです。

勉強は時間の確保も含めて、正直言って困難の連続です。
それでも、夫を亡くしてからの失敗がきっかけとなってこのような希望へとつながっていることが、自分には奇跡のように思えています。

義母はいまどうしているのだろう。
ふと、そんなことを思ったりもしています。













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