ゆっくり大人になればいいって

上の娘がまだまだ小さかった頃、「自分で食っていける大人にしよう」という幼児教室が流行った。メディアでもあちこちで取り上げられて、初めての子育てで不安ばかりの私には、とても魅力的に思えた。その幼児教室はどこもあっという間に定員いっぱいになり、変なところにアンテナが高かった私は一番ノリで入塾させた。

「今の子どもたちは野山で駆け回って「遊びきった」体験がない。それが生きる力の弱さにつながっている。」

そう言われて、幼児教室が実施している大自然での夏合宿に幼稚園の時分に参加させたものだ。

子育てを16年やってみて、いつも周りには「生きる力をつけさせる」とか「自立心を育む」とかいった言葉が散らばっていた。それは育児という大海原を、小舟に乗ってあてどもなく漕ぎ続ける私にとって、目の前に突然現れた豪華客船みたいなものだった。「この素敵な船についていけば、うまくいく」と思って、私は全力で小舟を漕ぎ続けた。

周囲を見れば、幼いときから好きなことに熱中して頑張るスーパーキッズたちが普通にいた。ピアノのコンクールに出て連戦連勝の子、低学年の頃から研究テーマを持って自由研究を進める子、海外留学を夢見て英語を勉強する子、医者の親に憧れて医学の道を志す子。

ネットニュースなどを見ても、「早く道を決めてそこに向かって頑張れる子」を「生きる力のある子」として賞賛しているような感じだった。「漢検一級最年少!」「中学で数学の定理を発見した少年、ハーバードへ!」などの見出しがニュースサイトにあがるたび、私は奇妙な焦燥感に駆られた。

「早く、自分の道を見つけて」

「早く、大人になって」

直接口には出さなくても、焦る気持ちが私を苦しめた。

私の気持ちとは裏腹に、中学生時代の娘はいつまでたっても自分の道(志望校など)を決めようとはしなかった。もともと、娘はおっとりしているけれども、結構しっかりしている子だった。それが、中学に入ってから私をやたらと困らせるようになった。「自分で決めなさい」と言うと、膨れてクチを利かなくなるようになってしまった。彼女が何を考えているのかも分からなくて、私はひたすら「自由」を押し売りした。

「何を選んでもいいんだよ?何をしてもいいんだよ?自分で選べるんだよ?何を黙っているの?」と。

今思えば、娘は「早く大人になって欲しい」という私のエゴを感じ取っていたのだと思う。中学生ってまだまだ子供だったのに。まだまだ親に甘えたい時期だったのに。

「食える大人にする」のも大事だろう。自立心を育み、生きる力をつける育児も必要だと思う。だけどそれ以上に、子供時代に精一杯子供でいさせてあげる経験も必要だったと今になって思う。そして早くから親や周囲の期待に応えたり、安心させることが「生きる力」ではないということ、私はどうして気づくことができなかったのだろう。

私は、子供に自立心や生きる力をつけるために頑張る必要なんてなかった。ただそこで、笑って子供の話を聞いてあげられればそれで良かったんだ。

私はおおいに反省し、娘が高校生になってからは毎日娘とアホトークしている。格好いいお手本になるお母ちゃんである必要なんてもうない。家で笑い転げているオバサンでいればそれでいい。そして子供も、ただダラダラと家でリラックスしていてくれればいいのだ。だって、まだ子供なんだから。

生きる力、自立心、食っていく大人になる、大事だ。大事だよ。
でもさ、子供が子供でいる時間はきっともっと大事。生きる力なんてなくても受け入れてもらえる場所があるっていう体験は、もっと大事。

だから私は、ただここで笑っていることにしたよ。

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