母親が「普通」ではなくなった

突然母親が「普通」ではなくなった。いや、正確に言うと今までの意地悪さが煎じられて遠慮なく濃くなった感じになった。

それは一週間前。仕事中に母から電話が鳴った。もう数年前から私は母の電話は取らないようにしているのだが、そもそも母親は私が仕事をしているであろう時間には電話をかけてこない。それが突然鳴った。なんでだか分からないけど嫌な予感がして、そのときは電話を取った。

「もしもし、元気~?」

拍子ヌケするような朗らかな声だった。

「どうした?何かあった?」と私が聞くと、母はこう言った。

「今度お兄ちゃんが海外から一時帰国するじゃない?そのときに発達障害の息子くんのことどこが変なのか観察されたりしないかしら~。それってあなたイヤじゃない?」

私は母とは断絶していたが、たまに夫が私の実家に子どもたちだけ連れていってくれていた。そしてGW前の週末に息子を連れていくことになっていたのだった。

「え…」

頭が真っ白になっている私に、またもや母は言い放った。

「そうよねぇ。療育終わったんだもんね。ちゃんと普通の振りできる?」

この人は、なんで、こんな、失礼なことを、平気で、言えるのだ

私は電話で話しながら持っていたボールペンで自分の手を何度も差した。痛みで気持ちを紛らわせていないと、その場で母に怒鳴り上げてしまいそうだったからだ。私の手の甲には10個ぐらい太めの穴が開いた。だがそのときは怒りを逃すのに必死で、痛みすら感じなかった。

その日から数日間は地獄のようだった。落ち着こうとしても落ち着こうとしても怒りが湧いて出てくる。あんな失礼なことをいうために、しばらく連絡を絶っていた私にわざわざ電話をしてきたのか。嫌がらせなのか。意地悪なのか。そして私はいつもの言葉が空しく出てくるのだった。「なんで、私の気持ちを分かってくれないの」

そのあと、もうこのまま何もなかったかのように子どもを連れていくのがイヤになったので、「母からあまりにも失礼なことを言われたので今回の帰省は取りやめたいと思います」と父にメールした。すると、いつもは母の肩を持つ父から意外な言葉が返ってきた。

「やっぱりやらかしたか…」

驚いて詳しい話を聞いたところ、ここ何ヶ月か妄想を見たり、突然攻撃的になって父に対して暴言を言い始めて止まらなくなったりということが続いていたそうだ。認知症かと思って検査したが異常なし。何らかの精神疾患の可能性が高いとのことだった。老人性鬱病とかせん妄とか遅発性統合失調症とかいろいろ可能性はあるようだが、もう私は細かい話は聞かなかった。

ただなんだろう、ホッとした。心からホッとした。

親が精神疾患になってホッとする娘がどこにいるかと言われそうなものだが、きっと私は「普通の母」が「普通の神経」で私に酷いことを言ってくるのが本当にいたたまれなかったのだと分かった。

どうして娘にそんな意地悪が言えるの…?
どうして私がつらいってこと分かってくれないの…?
私、お母さんのことが本当に理解できないよ。

10年も20年も私は同じことを思い続けた。「いつか分かってくれる」という気持ちがあったことも否定はできない。ぐちゃぐちゃに傷つきながらも、母の親としての良心に期待することはやめられなかったのだ。

「母さんはもう何が失礼かとか多分分かってないよ。近所でも相当やらかしてる」と父から助けを求められ、私はなんだか不気味なほどホッとした。

もう母に「なんで分かってくれないの」と言わなくていいと知って。もう母は私と同じ世界線では生きていないのかもしれない。だから、もう分かってくれることはないだろう。

母は私の顔を見ると息をするように失礼なことを言う。それは精神疾患に罹患していようとしていまいと同じだ。だから私も、自分から積極的に母とコンタクトを取るつもりはない。でも母は、もう分からない。きっと分からないんだ。分かる努力もできないんだ。だからもう私、「なんで」って傷つかなくていいんだよ。

不思議なことに母が「普通の母」ではなくなったことで私は解放された。親子関係の不幸な物語の多くは、親にまともな感性を期待して、「分かって欲しい」と子供が思ってしまうことからくるのかもしれないね。

親の愛情を諦めるのは全人生かけて行う一大作業だな。

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