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ボルドーが似合う季節


都心に出掛けた昼下がり。


真昼の地下鉄は空いていて、シートにゆったり腰かけていると、


「ドキッ」


赤いネイルの爪先が目に飛び込んで来た。

通路を挟み前の席に座った女の子の手。
なんて色っぽいの。


白くすらりとした指の先には、長く整えられた爪。
真紅のネイルが眩い。


幾つかな?25歳位かしら?
私もその頃は赤が好きで、時々マニキュアしたものだけど、すぐにオフしてしまうのが常だったな。


1980年代半ば。
私が生まれ育った地方都市では、まだまだお洒落も保守的な時代で、赤い爪の際どさは、お転婆娘の私でも、流石に不良娘に思われそうで怖かったからだ。


あまり視線をやり続ける訳にもいかないし、膝に置いた自分の手に目を遣る振りをする。


爪先にはボルドーのネイル。

手は年齢を一番誤魔化しにくいパーツだと言われているけれど、悲しきかな私の手も正直に還暦が過ぎた事を物語っている。


指の節がゴツゴツし、お世辞にもしなやかとは言い難い。血管も浮き立っているしね。


まぁ毎日、毎日、何をするにも手を使って来たんだから、ほんとにご苦労様なのだけど。

でもね、味方がいるの。
それはボルドーと呼ばれる深い赤。

この色は、年輪を重ねた手に一番よく似合う色だと信じてる。
肌の色が美しく見える上に、年輪が生み出した雰囲気が加わると、とてもエレガントに見えるのだ。

そう思うようになったのは
37年前のある冬の日。
素敵なmadamに出会えたのがきっかけだ。


1987年の歳の瀬。
25歳の私は憧れのパリに旅をした。

黄金色のイルミネーションで煌めくシャンゼリゼ。


灰色の空の下に映えるカフェの赤い屋根。


オルセーから眺めるモンマルトルの丘。


どれもこれも忘れ難いパリだけど、もうひとつ、胸に焼き付けた、今の私へと繋がる思い出がある。

それは、カンボン通りシャネル本店での出来事。

恐る恐る店内に足を踏み入れると、白と黒で統一された、ゴージャスで洗練された空間に舞い上がりそうな私。

その場の雰囲気に呑まれてしまいそうな自分を奮い立たせ、ゆっくりと店内を見回した。


貯金でシャネルバックでも買ったと思います?


答えはNO。
予算はパックのツアー代金で
一杯一杯。我慢我慢。
背伸びするとカードの支払いで大変だから。


買えないからか、シャネルの商品の事は何一つ覚えていないのに、年配の店員さんのエレガントさが印象深い。


当時の日本のブランド店では、若い店員さんばかりだったから、パリではマダム達が活躍している事にもびっくり。
流石フランス。
大人の女が認められてるわ。

茶色いセミロングの髪を、ゆるやかに巻いたその人は、とうに五十を過ぎているように見えた。



美人ではなかったし、手にも皺が目立ち、美しい手とは言い難かったけれど、爪先にはボルドー色のマニキュアが艶めき、その指で商品を扱う姿がとても優雅だった。


爪先の小さな深い赤が彼女全体を上品に引き立て、そこからは、大人の女の洒脱さが匂い立っていた。

何処にも頑張ってお洒落している感がない。  
あくまでも、さりげない。
どのようにすれば、あのようになれるのだろう…

「私もボルドーが似合うマダムになりたい」

その日から、ボルドーのネイルは私の憧れとなり、背伸びにならずに似合う日を待ち続けた。


40年近くの月日は瞬く間に過ぎ、娘っ子だった私は否が応でもmadamと呼ばれる歳になった。
還暦なんて、宇宙に行くより遠いものだと感じていたのに。

その長い時間の中では、持ちの良いジェルネイルが開発され、今ではマニキュアよりジェルネイルが主流となり、私も愛用者の1人である。



さて、憧れのボルドー。



40代からトライし続けて来たものの、最近まで、まだ華やか過ぎる感じが否めなかった。


でも何故だか62歳を迎えたこの夏頃から、自然に馴染むようになった気がする。

私の華やかネイルを好まない夫が、意外にも私の手を見て、

「上品だね」

と、言うので、これはやっと、「さりげなく」見えるようになったんだと嬉しく思っている。

そこで、ふと思い出したのは、かつて女優の桃井かおりさんが書かれた「賢いおっぱい」と言うタイトルのエッセイ。


胸の位置が3センチ下がった事で、シャツのボタンの位置が2つ下り、私はすこぶる綺麗にシャツを着こなせるようになり、なんておっぱいは賢いのだろうと、書かれておられた。

セクシー過ぎる際どさを柔らげてくれるのは、老化と呼ぶ自然からの贈り物だ。


私の手も桃井さんの「おっぱい」同様、その贈り物を授かる年代に入ったと言う事かしら。


若く美しい手には、セクシーに映り過ぎる深い赤も、年を重ね精彩を欠いた手には、程よい色気となり、活力を与えくれるように感じる。

フランスの南西部地方で醸造されるボルドーワイン。
ボルドー色はこのワインに因んだ色らしい。



長い歳月をかけて熟成を重ねる事で深みを増し、複雑で魅力的な香りを醸し出すボルドー。

まるで女の人生のように…



60代。
神様が女に与えてくれる成熟の季節。


ボルドーの似合う季節がやって来た。





































































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