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笑いたいときに笑える幸せ

僕の歯並びは全体としてそう悪くはないが、上の前歯がすきっ歯だ。

親から聞いた話では、乳歯の頃は歯のモデルにしたいくらいに色も形も並びも美しかったらしい。
しかし、生え替わりの時期に乳歯がなかなか抜けず、永久歯があらぬ方向へ生えはじめ、肝心の前歯に隙間が開くこととなった。
母親からは歯列矯正を強く勧められたが、金額を聞いてすぐ断った。

小学校高学年になると、好きな子への想いが募るのに比例して、自分の前歯がどうしようもなくマイナスに思えてくる。
その頃から笑わなくなった、いや歯を見せて笑うことができなくなった。

前歯、前歯、前歯! 自意識過剰な暗黒時代のはじまりだ。
学校でおもしろいことがあっても、まるで貴族のように口に手を添えて頬を緩めることしかできない。
最初は笑えないことを苦痛に思っていたが、そのうちそんな感情も薄れ、中学、高校と、家から一歩出たら笑わないことがふつうになっていった。

そんな高2のある日、体育のサッカーで友だちと激しく衝突する。
すきっ歯のかたわれがグラグラになり、かろうじて抜歯は免れたものの、神経は切れてしまっていた。

10年後その歯が次第に黒ずみはじめ、差し歯にすることになった。
問題の歯を細く削り、その上から人工の歯をかぶせるのだ。
技師に、おかしくない程度に幅広めの歯を作って隣の歯との隙間を少しでも埋めてほしい、と頼んだ。
できあがった歯は、隙間を完全に埋めるには至らなかったが、それでも見た目を気にするほどではなくなった。

そこからだ、僕の笑顔人生が始まったのは。
いつでも歯を見せて笑えることがこんなにも爽快なことと初めて知った。
そろそろ29になろうとしていたが、新たな人生を手に入れた心地だった。

歯列矯正すれば苦労はなかったかもしれないが、咀嚼に難があるなど医学的に必要な人以外はすべきではないとの声も聞く。
なにせ圧をかけて歯ぐきの骨を少しずつ溶かしながら歯を移動させていくので相当なムリがかかり、将来動かした歯からポロポロ抜け落ちるとか。
真相は知らないけれど。

僕は、これからもこの作り物の歯と少しの隙間を携えていこう。
笑いたいときに笑える幸せを知れただけで十分だから。

(2022/3/2記)

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