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たった167日どすえ?

京都の知り合いは、大阪はどぎつくてかなんわという。
(意訳:何かと派手で困る)

一方で神戸の印象を問うと、神戸? 何があるんどすえ? という。
(意訳:歴史のない新参者は黙っとけ)

大阪のほうが印象があるだけマシといったところか。
あくまで僕の知り合いの大阪観、神戸観だけど。

神戸には歴史がないのか?

***

神戸の地が歴史の表舞台に立つのは平安の末、平清盛の時代。
神戸には奈良時代に開かれた大輪田泊(兵庫港)があったが、そこで清盛が日宋貿易を始めたのだ。

清盛は1169年、福原(神戸市兵庫区)に京から移り住む。
福原には平氏一門の邸が建てられ、すでに都市らしい様相を呈していた。
清盛は京から離れた地で平氏系新王朝の樹立を狙っていたのである。

1179年、清盛はクーデターを起こして後白河法皇を幽閉、翌2月には高倉天皇を上皇にし、その子を1歳で安徳天皇に即位させた。

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系図を見れば、高倉帝も安徳帝も清盛の意のままになることが一目瞭然。
ついに平氏系新王朝が完成したのだ。

6/2、清盛は天皇、上皇、法皇を福原に呼び寄せ、都づくりが始まる。
安徳天皇が仮で入った清盛邸を当面の皇居と定め、その近くに内裏を新造することが決まり、これを福原京と呼んだ。

福原京と現在の神戸を重ね合わせてみた。

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今の神戸大付属病院のあたりが福原京の中心にあたる。

福原は狭く、平安京のような大きな都は建設できないが、清盛はむしろ旧態にこだわらず、大輪田泊を取り込んだ斬新な港湾首都を夢想していたといわれる。
極悪人のようにいわれる清盛だが、その先進気鋭の発想がその後の海洋都市・神戸の発展に寄与したのは間違いない。

ところが貴族たちは京を離れる気がない。
往古の都にどっぷりだった貴族には、港湾首都など理解できなかったのだ。
清盛派は福原を「都」と呼び、反清盛派は「離宮」と呼んだとされる。

内裏を新造し町の区画を進め、いよいよ都が形になってきたという頃、8月に伊豆で源頼朝が、9月に信濃で木曾義仲が相次いで挙兵。
源平の争乱は瞬く間に全国に広がり、11/29、清盛はやむなく京に還った。
神戸に首都が置かれたのはたった167日だった。

福原はその後、源氏に敗れて西走する平氏自身の手によって焼かれる。
都と定めたわずか3年後のことである。

***

福原は都だったのか。
よく論争になるが、未完だったにせよ内裏が新造され、そこに天皇が住まいした事実からして「離宮」ではなく「都」と呼んでよいと僕は考える。

神戸には首都があった。
歴史のない新参者、ではないのだ。

――たった167日どすえ?
くだんの知り合いには、そう言われそうではある。

(2022/5/18記)

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