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物憂げなメロディーに泣いたのか

小学校の下校の音楽はシューマンの『トロイメライ』だった。

父が幅広いジャンルの音楽を好んだおかげで僕も小さい頃からクラシックに親しみ、『トロイメライ』はすでに大好きだった。
その物憂げなメロディーが夕方の校内に響き渡ったとき、これほど下校の空気にしっくりくる曲があるだろうかと聴き惚れた。

インドアな僕は校庭で遊ぶことはほとんどなかったが、なぜかその日の放課後は友達数名でかくれんぼをすることになった。
小1か小2の頃の話だ。

僕はまず鬼になった。
小学低学年のことだ、頭隠して尻隠さずという言葉はこのためにあるのかというくらい皆の隠れ方がちゃちで、次々と摘発していく。

ところが一人なかなか見つからないのがいた。
学年でもっともジャイアンな造船会社のボンボンだ。
態度だけでなく身体もまた人一倍大きかったから、隠れる場所も限られるはずなのに、皆で手分けして探してもまったく見つからない。

早く終わらせて帰りたかった僕は、そのボンボンの苗字をもじってちょっとムカつく呼び方を考え、皆で大合唱しながら校内を練り歩いた。
ほどなく顔を真っ赤にして怒りに打ち震えたボンボンが出てきた。
そのデカい図体は、煙にいぶされて巣から出てきたクマを思わせた。
「おまえら、くそごうわく(めっちゃ腹立つ)! しばいたろか!」
こちらの作戦勝ちだ。

攻守交代。
次はクマが、いやボンボンが鬼になる。
まだ憤懣やるかたないボンボンは見るからに鬼だ。

ひえーっ、そんな根に持たんでも。
僕は、引きずり出されて八つ裂きにされるのび太を想像し、身震いした。
これは絶対見つかってはいけない。

僕は校庭の片隅にある掃除用具入れを隠れ場所に選んだ。
誰もが当番で一度は開けたことのあるそこは、所狭しと竹ぼうきやちりとりが詰め込まれ、人が入れるスペースがないのを皆知っている。
しかし、スリムだった僕は難なく入ることができたのだ。
そこに入った瞬間、僕は絶対的な身の安全を感じた。
「くそ、覚えてろ、のび太め!」という空耳が聞こえるほどに。

まっ暗な用具入れのわずかな隙間から校庭を覗き見ていた。
はたして鬼の気配は一向にしない。
そのうちゴム跳びやけんけんパーで遊ぶ女子たちが帰っていく。
ラケット野球で歓声をあげていた男子たちもベースを片づけ、家路につく。

ん? ジャイアンが探し歩く姿を一度も見ていないということは…
さっきの意趣返しに、皆を引き連れて早々帰ったのか?
ヤツならやりかねない。

まぁそれでも全然かまわない。
見つからなかったら僕の勝ちなのだから。
こうなったら最後まで粘ってやろう。

そして『トロイメライ』が16時の下校を告げた。
この曲やっぱりいいな、何度聴いてもしんみりして…

グスン…
涙が一筋、こぼれ落ちた。

誰も来てくれず淋しくて泣いたのか。
物憂げなメロディーに泣いたのか。
今となってはもう分からない。

でも『トロイメライ』にちょっぴり苦い思いが乗ったのはその日からで間違いない。

(2023/8/14記)

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