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いつも小瓶をポケットに入れて

 25年も前の話になる。人口8000人のバレンシアの片田舎で、私の外国人嫁としての苦難は予告なしにスタートした。

 標準の日本語しか知らない外国人が、いきなり東北弁や沖縄弁でしか存在しない世界に飛び込んだ時を想像してほしい。大学や語学スクールで勉強したのは文法中心の標準スペイン語のみ。公的機関での標準語としてのスペイン語はもちろん存在しても、村での共通語はあくまでもバレンシアの地方言語。

 パン屋に行っても、魚屋に行っても全く知らない言語が猛烈なスピードで頭の上を通過していく。かろうじて日本から持参した標準スペイン語の文法能力なんて、有っても無くても同じことで、いっそのこと身振り手振り顔振りの方が通じるくらい。文法を詰め込むより、言葉なしでコミュニケーションがはかれる『切り絵』か何かやっておけば良かったと心底思った。

 余談だが、ちょうど同じ頃、アマゾンがインターネット販売を始めた。日本の実家送りにした商品が届くと、母が「大変や!アマゾンから何か来たわ!」と大騒ぎをした。私が嫁に行った先は、もしかしたらアマゾンにあるのかもしれないと、本気で疑って腰が抜けたらしい。

 幸い、スペインはヨーロッパに位置するが、私にとっては、アマゾンに転がり落ちたのと同じようなもので、毎日がカルチャーショックの連続。おまけに、「アジアは全部ひっくるめて中国」と思われていた村では、唯一の日本人は「ただの中国人」にすぎなかった。アジア人はみんな中華料理店か100均で働いている。そうでなければシッターか掃除婦。そう思われている時代だった。




 初めて彼女に会った時も、例外ではなかった。いきなり頭上から異国語シャワーが降ってきた。脳のシナプスが雪の結晶のように凍りついて動作不能となり、単語は何一つとして入ってこない。今まで勉強していたのは一体、何やったん?と鳩が鉄砲玉をくらったような私に、彼女は灰色がかった深いグリーン色の美しい瞳を向けてこう言った。

「ノ・テ・プレオクペス!(心配無用!)」

「私はアナタとは標準語で話すから、全く問題なし!」

しかし、その三秒後には標準語は消え去り、また異国に引き戻される。

「どうして、国によって言葉が違うんだろうね。どの国も同じ言葉ならいいのにね。英語なら英語でいいじゃない。そうすれば、どこの国の人とでも話せるのに」

英語が全く話せない彼女は、寂しげに言った。

 その日を機に、彼女は私に話かける前に、テーブルクロスの裾をこっそり捲るようになった。不思議に思って覗いてみると、クロスの下にはボールペンで私の名前が「JARUCO」と小さく書かれてた紙ナプキンが隠されていた。

 スペインでは「H」は黙字であり発音せず、「は」を発音する表記は「JA」が一番近い。また、同じ発音の「KO」と「CO」だが、「K」は外来語にだけ使われるため、一般には「CO」となる。だから、ごく普通に「ハルコ」というと、JARUCOと表記されることが多い。対して「HARUKO」と書くと、「アルコ」と呼ばれるのが普通だった。

 青色のボールペンで少し歪んだ文字で書かれた「JARUKO」。私の名前を大切にしたいという気持ちが、私に話しかける度にテーブルクロスの下から見え隠れして、嬉しさにキュッと胸が鳴ったのを思い出す。




 まだ日本にいた頃、唐突に何の花が好きかと、未来の夫から聞かれたことがあった。

「サボテンかなぁ。毎日、水をやらなくていいから手入れが簡単だし」

と、何気なく答えたら、新居の全ての窓に、大量のサボテンが飾られていた。彼女の仕業だった。

 植物が好きな彼女は、毎週木曜日にでる村の青空マーケットに行っては、小さな鉢植えを3つ買ってきた。何故だか色はいつも同じで、赤い花は私より5つ年上の義妹、黄色の花が彼女、ピンクの花が私のものだった。自分の分だけでもお金を払いたいと言っても、やっぱり、

「ノ・テ・プレオクペス!(心配無用!)」

と言うだけだった。

 外国人嫁となってしばらくした頃、近所の肉屋にお買い物に行き、お釣りを誤魔化されたことがある。まだ「ただの中国人」でしかなく、反論する語学力も、心臓に毛も生えていない頃だ。金額的には大したものではなかったが、小銭入れに残った残金からしても、やっぱり悔しかった。絶対に私の間違いでない、という話をした昼食を食べながら話した。

 けれども、コレと言った反応もなく、話しのオカズにすらならなかった嫁の愚痴も、誤魔化されたお釣りも、理不尽さも、揉み消された火から出る煙のように、食事と一緒に消えていった。

 そう思っていた翌日、肉屋から「すぐに来てくれ」と電話があった。閉店後に売り上げを確認したら、ちょうど私が受け取らなかったお釣りと同金額分が、余分の残高として弾き出されたという。彼女が朝一番にお店に怒鳴り込みに行ってくれたのだ。

 電話を切ってすぐにお店に立ち寄り、お釣りを受け取ったその足で、彼女の家に向かった。昼食の用意の途中だった彼女に、ちゃんとお釣りをもらったことと、わざわざお店にまで言って話をしてきてくれたお礼を言ったのだけど、昨日と同じく「そう、よかったね」と静かに言っただけだった。




 私の母が始めてスペインにやって来た時だった。私と彼女以上に会話の成立しない二人だったが、母の話では、彼女は母の目を見ながら何度も手を握ってくれたらしい。「大丈夫だから、大丈夫よ!」という気持ちが痛いほど伝わってきて涙が溢れた。しっかりと握られた皺だらけの手から伝わる柔らかな体温で、娘を遠い国へ嫁に出した不安がようやく和らいだと母が言う。きっと、何度も私に言ってくれたように、「ノ・テ・プレオクペス!」と言っていたに違いない。

 あの時、年金暮らしで決して裕福とはいえない懐の中から、私の両親を含む全員にオルチャータ(タイガーナッツミルク)をご馳走してくれた。買ってきてと渡された紙幣は、綺麗に四つ折りにされていた。彼女にとって、精一杯のおもてなしだったと知っている。シャリシャリとフローズン状になったオルチャ-タが口の中でゆっくりと溶け、優しい甘みが広がった。



 10年以上も前に連れ合いを病気で亡くして以来、ずっと一人身だった彼女。60歳を越した頃、ひょんなことから彼氏ができた。彼氏の息子さんにも既に会ったとかで、私たちが紹介してもらえる日も近いと思っていたら、突然の破局を迎えた。

 理由は、彼女の家から3キロある公園まで散歩に行った際、更に、その先にある彼の家に立ち寄った。息を切らせて顔を赤らめる彼女に対し、彼氏はというと、水の一杯どころか、疲れただろうと椅子もすすめてくれなかったらしい。たった、それだけだった。そういった基本的な気遣いが出来るかとうかという事が、他のどんな条件よりも彼女にとっては大切だったのだ。



「ポケットの中にはいつも、『リスペクトの小瓶』を持っていなさい」


 優しく、強く、厳しい義母がいつも言っていた言葉。

 言葉もわからない外国人嫁を迎え入れ、身をもって教えてくれた人に対する「リスペクト」。夫が私たちの結婚の報告をした時、何て言ったのか聞いてみたら、「二人が幸せなら何もない」の一言だったらしい。

 義母が他界してからもう15年になる。無くなる日の前日、入院先の病院で皆に笑顔を振りまいて「グラシアス(ありがとう)」と言っていた義母。

 あれから異国の嫁は、合格点を貰えるまでに成長したのだろうか……。

 義母の命日には、彼女が大好きな黄色い花を持って会いに行く。

 来年も、またその次の年も、リスペクトの小瓶をポケットに入れて。

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