【映画評】「シン・仮面ライダー」(2023) よく分からない……

「シン・仮面ライダー」(庵野秀明、2023)

評価:☆☆☆★★

 よく分からん……、というのが率直な感想だ。
 恥ずかしながら、石ノ森章太郎の原作漫画を読んだことも初代テレビシリーズの『仮面ライダー』を観たこともないので、分からないのは当然なのだろう。原作を知っていればきっと楽しめるんだろうな、ということは全編から伝わってきた。
 私は「ゴジラ」にも『ウルトラマン』にもそれなりに思い入れが強いので、「シン・ゴジラ」も「シン・ウルトラマン」も面白く鑑賞することができた。強い思い入れという色眼鏡がなくても、これらは良質なエンターテインメント映画だったと思う。「シン・エヴァンゲリオン劇場版」も然り、私は『エヴァンゲリオン』には全く思い入れがないが(観たことはある)、この作品も楽しめた。
 しかし、「シン・仮面ライダー」はどうだろう。前提知識がない者として率直に観れば、映像のスタイリッシュさはともかくとして、これは「良い映画」とは言い難いと思う。
 大きい理由はずばり、「悪」と「狂気」が描かれていないことだ。
 例えば、ショッカーという組織がよく分からない。「マジョリティの規範から逸脱したアウトサイダーの幸福を本位とする、人工知能の計画」という設定はまあ分かるのだが、この計画に従って動いているはずのオーグ一体一体のやっていることが、あまりにもバラバラだ。チョウオーグの目論みからすれば、コウモリオーグやハチオーグがやろうとしていた世界征服なんて邪魔(少なくとも無意味)なだけだろうに……、人工知能アイは、要するにこいつらを使って何がやりたかったんだろう? 秘密結社としての輪郭が曖昧すぎである。
 組織の「悪」はちっとも統制されていないが、かといって、エゴを肥大させた各オーグの個別の「悪」も、全く奥深いものではない。世に受け入れられないことを逆恨みしている(と口で説明する)科学者やら、「エクスタシー!」と叫びながら暴れる色情狂やら、友達を泣かせるためにおもちゃを壊そうとする可哀想な子やら……どうにも、「だめな邦画」によく出てくる紋切り型の「だめな狂人」感が拭えない。古い子供向け作品をリブートする難しさは想像できるので、こういう設定にケチをつけてはいけないのかもしれないが……。
 考えてみれば、「シン・ゴジラ」も「シン・ウルトラマン」も、悪に堕ちる者の狂気を描く必要のない作品だった。「シン・仮面ライダー」は、庵野秀明の世界観が、キャラクターの「狂気」をどの程度まで許容できるか試す作品でもあったのかもしれない。だが、実のところ、おそらく庵野が描くことのできる「狂気」は1パターンだけなのだ。おそらく庵野には、「他人が何を考えているか分からない」人間の気持ち以外、分からないのである。
 「コミュ障」の主人公が自分の破壊衝動と折り合いをつけ、この社会で生きていく決意をする――というのが庵野作品で繰り返し描かれるモチーフだ。そこにある思想を一言で言えば、「反革命」である。革命的で破壊的な「でかい一発」でしか解決できなそうな諸々の問題に、個人の「決意」を通じて、どうにか折り合いをつけていこう、という思想である。
 「シン・仮面ライダー」では、敵との戦いは、凶悪な通り魔との戦いのようなものとしてイメージされている。いわばそれは、常態化する対テロ戦争である。ショッカーは犯罪者(予備軍)をスカウトして回る革命組織であり、ショッカーによって、犯罪は革命的になるだろう。そして、作品に奥行きを持たせるためには、ヒーローが、「革命派」である犯罪者たちに、自分と相通ずるものを感じてしまうことが不可欠だった。だからこそ仮面ライダー=本郷猛は、チョウオーグに自分と同じ境遇を見て取り、救済を試みた。
 だが、ここで、庵野が扱える「狂気」のヴァリエーションの限界が露呈する。「もしかしたら自分と同じなのかもしれない」と思えてしまう敵の狂気を、庵野は、「他人が何を考えているか分からない」苦しみとしてしか描くことができない。まあ確かに、通り魔に家族を奪われ、他人を信じられなくなった苦しみくらいならば、もしかすると革命など起こさなくてもどうにか解決できるかもしれない。だが、言うまでもなく、「コミュ障」が世界を受け入れる決意をするだけではどうにもならない問題は、世界にはいくらでもあるのだ。
 そのような本物の「どうにもならなさ」を隠蔽し、敵が抱える問題を「頑張ればどうにかなる問題」として描き、ヒーローが、お手本として、自分が抱える同じ問題を「頑張ってどうにかする」ことで上位に立つ構図がここにある。ヒーローが問題を「どうにかする」ために必要な舞台装置として、対テロ戦争はまるごと肯定される。戦いは、戦士個人の「気の持ちよう」のようなものへと還元され、敵が敵であるための客体的条件は、「どうにかなる」はずの問題を「どうにもしていない」という主体的条件へと重ね合わせられる。
 「シン・仮面ライダー」の物語に現代性があるとすれば、主に、庵野作品に共通するこうした世界観によるものだろう。そこでは、解消不能な「悪」や「狂気」を前にした断絶と葛藤が描かれることはない。だが、「シン・仮面ライダー」が『仮面ライダー』という原作を離れたところで「良い映画」として成立するためには、おそらく、そのような断絶と葛藤こそ描かれなければならなかったのだ。
 したがって、原作を知らない私には、この映画がよく分からない。

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