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育児休業を終えるとき


息子のいないリビングには、散らばったオモチャが寂しげに転がっている。

私の育休が始まってから6ヶ月、この部屋がこんなに静かに感じたのは初めてだった。


雪国にも、桜の季節がやってきた2019年4月。息子は保育園で新しい生活をスタートさせた。

初登園の朝、息子は思いの外あっけなく、先生に抱かれて園の奥へ行ってしまった。

これで6か月に渡る育児休業は一旦の区切りとなる。息子と2人きりで過ごした日常は、予想より遥かに軽い足取りで去って行った。

自宅で一人、呼び出されることを見込んで待機していた私は、彼が泣いていないかと心配でたまらず何も手につかない。どっしりと構えた理想の父親像はどこへ行ったのか。

出産の感動を味わったのがついこの間だったのに、息子はもう一人で歩くようになっている。少しづつ色々な発音ができるようになり、一生懸命に何かを伝えてくれる。

こんな風にどんどん成長して、いつか親元を巣立つ日が来るのだろう。



職場で育児休業の取得を申し出たのは、息子が生まれる前からだった。

人間というのは複雑にできていて、妊娠と出産の報告は祝ってくれるのに、育児休業を口にすると態度が変わってくる。全てが地続きになっているはずのその過程でも、職場を休むことに対しての許容範囲には、まだ高い壁があるようだ。

「君の権利だから、与えない訳にはいかないよな。穴を埋める人がいることを忘れるなよ。」

冷たい正論に反論したい気持ちを、ため息と一緒に吐き出した。

波風を立てないように過ごす日々は、もう10年以上続いている。

それでも、育児経験者や同僚を中心に、励ましの言葉をくれる人の方が多い職場だった。男性の育児参加が珍しい時代ではあるのに、私の背中を後押ししてくれた人たちには心から感謝している。


曇り空で始まった育児休業だったが、ひとたび育児に追われてしまえば空模様など気にしている暇は無かった。いや、暇が無いという表現は正しくないのかもしれない。批判を恐れずに言えば、1歳になったばかりの息子に「つながれていた」が、しっくり来る。

息子の食べれる食事を作り、楽しめる遊びを選び、オムツを気にして、一緒に眠った。

彼の速度で全て物事が進み、自分の時間は少なかった。自分以外の人のペースで生きることが、こんなにも疲れるとは思っていなかった。

妻が帰宅するのを楽しみにしていたのは息子だけではない。彼女がいれば、私の囚われの身は半分開放されたからだ。


それでも、私の半囚人生活は充実していた。

息子の成長を間近で見る毎日は楽しく、私自身も父親として成長する実感があった。

彼の表情で体調変化に気づけたし、離乳食の味付け粉末が次第に嫌いになっていくのも知れた。午前中は思い切り遊ばせて、お昼寝の時間を調整する技術も得た。

毎日一緒に経験をしなければ分からないことがある。愛する息子に自分の時間を注いだことは、私が父親になるために必要なことだった。

そして、夫婦で家事育児を共有することは、3人家族の土台を作り上げているように感じられ、これから先も妻の夫で居続けるため、やはり必要なことだった。



保育園の入園より、数日前のこと。

窓から差し込む光も温かみを感じさせ、心穏やかに過ごした日だった。

洗濯物を畳みながら、よくEテレで流れている「パプリカ」を口ずさんでいると、ふいに息子が立ち上がり、両手を上げたり振ったりし始めた。

テレビでこの歌が流れると踊り出すのは知っていたが、私の口ずさんだ曖昧な音でも踊れるんだと驚いた。

「喜びを数えたら あなたでいっぱい」

この歌詞を口にしたとき、この6カ月で作った思い出がフラッシュバックした。

気分転換のドライブ、公園駐車場でお弁当、芝生の上で歩く練習。

夕方はいつもママが恋しくなって、泣きながら帰りを待った。

彼と一緒に作った思い出の一つ一つが輝いていて、あの時に見せてくれた笑顔や涙が本当に愛おしく、それでいて二度と戻らない時間であることに、

やっと気付いた。

「そうそう、パパの歌でも踊れるんだな。すごいなぁ…」

褒める言葉が涙声になり、この大切な時間がもうすぐ終わることを心に突きつけて来る。出来ることがどんどん増えていく息子が、遠くへ行く感覚があった。

こうやって子は少しづつ親から巣立ち、親は子供を見送らなければならない。

これからはその連続なんだから今から泣いてんじゃねぇよ、と自分に言い聞かせるが、まだペーペーの父親なので許して下さいと、誰かに謝った。​


これからずっと、一日の大半を親と離れて過ごす人生だ。

大きくなるにつれて、親と一緒に過ごす時間なんて減っていく一方だから、彼と濃密な時間を最大限で過ごせるのはこの時だった。

もし育児休業を取らなかったら、その大切なことも分からないまま人生を過ごしただろうし、何気なく「イクメン」の顔をして妻に多くを負担させていただろう。

チャンスがあるうちに育児休業をとって良かったと心から思う。



外で鳴く小鳥の声と、窓から入る優しい光が、この部屋に哀愁を漂わせていた。

私たちの育児休業を見てきたこのリビングも、静かに住人の帰宅を待っている。

もうすぐ私も職場復帰だ。

なるべく考えないようにして来たのに、

なぜだろう、少しだけ心が軽くなっていた。

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