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[創作短編小説] プリズム


 その少年は、公園のベンチに座って半透明の三角錐を覗いていた。小さな頭で大きな水晶玉のような目を見開いて一生懸命プリズムを見ていた。
 公園は駅を降りて家に帰る通り道の途中にある。その日柴崎は体調が悪かったので珍しく定時に会社を出て帰宅の途についていた。肩が岩を背負ったように重く、背中は鉛がへばり付いたように張り詰めて、疲れ果てていたので柴崎は夕暮れ時の住宅街を歩きながら、ふと公園で一休みしていこうか、と考えたのだった。
 それで公園に足を踏み入れブランコにでも乗ろうかと周りを見渡していると、もうすぐ日が暮れる時刻だからだろうか、公園には人気がなく、何だか淋しいたたずまいをしていた。ところがよく見てみると、公園の奥の砂場の横にあるベンチにひとりの少年が座っている。まだ小学校低学年くらいに見える。白い半袖のシャツと半ズボンをはいてベンチに置物の人形のように座っている。
 柴崎は、ゆっくりと公園をひと回りして歩いてから少年のいるベンチに近づいた。そして疲れ切った腰をベンチにおろして溜め息をひとつついた。それからよく見てみると少年は透明な三角錐を両手に持っていたのである。
 その三角錐は丁度大人の手のひらほどの大きさで、ガラスで作られているようだった。透き通っているが、中心部はすりガラスのように半透明で淡い白色をしていた。そのプリズムをピラミッド形に両手に持ち、少年はてっぺんから片目をつぶって中を覗いている。少年の目は好奇で金色の光を放ち、まばたきひとつせす魅入っている。
 柴崎はその様子をそばで見ていて、妙に気になった。一体少年には何が見えるのだろうか。もう薄暗い公園に独りでずっとこうやってプリズムを覗いていたのだろうか。そう考えると、自分も覗いてみたい衝動に駆られた。
「何が見えるのかな」
 少年に声をかけてみた。
 少年は無言のまま答えない。相変わらず微動だにせず、人形のようにプリズムを覗いている。
「おじさんにも、見せてもらえないかな。きれいなんだろう」
 再度声をかけてみた。
 すると少年はプリズムから目を離して、無言のまま片手で柴崎にプリズムを差し出した。
小さな目は無表情だったが、すべすべした唇の端には少し笑みが漏れていた。
 柴崎は、少年からプリズムを受け取ると両手で持ってみた。思ったよりも固く重い。その半透明の円錐形の物体は、柴崎の手の中で冷徹な光をたたえていた。柴崎は、プリズムに片目を近づけると早速覗いてみた。
 すると目の前がいきなり真っ暗になった。そして灰色の渦巻きが視界に現れて、猛烈な早さで回転し、世界が波打ち揺れた。明滅する光が、霧状にたちこめて収縮を繰り返した。柴崎の三半規管は狂ったように騒ぎ出し、強烈な目眩と吐き気に襲われて、まるでひどい乗り物酔いのような状態に陥った。結局、柴崎は数秒と目を開けていることはできず、慌てて目を閉じると、頭を横にそむけた。懸命に吐き気をこらえる。
 一瞬のことで一体何がおきたのか、全く理解できなかった。ただ、耳鳴りと目眩と吐き気が彼を暫く翻弄した。気分は数分で快復し、視界に明るさが戻った。
 柴崎は頭を振りながら、視線を手のひらに戻した。既にプリズムは彼の両手には無かった。横をみると少年が前と全く同じ格好でその物体を楽しそうに覗いている。
 ゆっくりと鞄をとって立ち上がると、柴崎はベンチを離れ、そのまま公園を出て帰路についた。たった今数分間の出来事はまるで夢のように感じられた。

 柴崎祐介。四十歳。大手都市銀行に勤めている。銀行勤めとはいっても、営業ではなく、コンピューターシステムの開発に携わる、いわゆるシステムエンジニアである。十年前に結婚し五歳下の妻がいるが、まだ子供には恵まれていない。
 仕事ぶりも相応の評価を受けて肩書きは上席調査役である。銀行の本部組織では、課長、係長と呼ばずに管理職を調査役と呼ぶ慣習があるが、上席調査役とは調査役の中でも一ランク上の役職である。一般企業における課長、それも筆頭課長と考えればよい。四十歳という年齢からみればそこそこ出世している方である。
 柴崎はコンピューターシステム開発部門でも長くソフトウェア開発現場に携わっていたが、数年間担当していたプロジェクトが一段落し、昨年から配置転換され担当職務内容はかなり変わってきていた。システムエンジニアの世界では、二十世紀最後の大仕事と呼ばれ、ある意味では歓迎すらされてきた「西暦二〇〇〇年問題」をより現場に近い立場で統括指揮する役割を与えられたのである。
 「西暦二〇〇〇年問題」いわゆる「Y2K」は、西暦一九九九年に入って全世界的に騒がれ始めた。要は西暦を下二桁で処理するコンピューターシステムが今世紀半ばに作られた結果、二千年を迎えると西暦を誤って処理して誤作動を起こす、という問題である。だが大手都市銀行の場合には一九八〇年台に第三次オンラインシステムと呼ばれた、コンピュータシステムの大更改を経験しており、実際には九十九パーセント問題が起こる可能性は無いといわれている。そもそも大手銀行のシステムは常に新商品、新法制への対応に追われるため、システム部門に大量の人員を抱えて投資額も年間何百億円という規模であるから、「Y2K」にもいち早く取り組んでおり、懸念の声はあがっていない。しかし、万一問題が起きた場合の社会への影響が極めて大きく、問題の見極めが難しいのがこの問題の特徴であり、そのためすべての金融機関は細心の注意を払い、念には念を入れてこの問題に取り組んでいるのが実態だ。
 柴崎が勤めるK銀行も二年前から「Y2K」に取り組んでおり、実態的には万全の対応を取っているはずなのであるが、いよいよ一九九九年に入り、本番を間近に控え、本格的に「Y2K」対策委員会を発足させ、万一の事態に備えた体制の構築や障害時訓練などを推進していた。
 柴崎は、こうした背景のなかで、銀行のシステム開発という現場にあり、「Y2K」対策のいわば「締め」の任務を受け持ったのである。
 「締め」の任務は、多忙を極めた。彼の所属する国際業務関係のシステム開発部門においても為替システム、リスク管理システム等、約三十種類のシステムが存在し、総勢二百名が業務に携わっている。当然個々のシステムによって「Y2K」に関する対応方法や進捗度合も異なるので、各自勝手な方向に進まないように目標達成基準を統一し、全員の足並みを揃えなければならない。
 いうなれば、柴崎の仕事は各システムごとに存在するチームリーダーを集めて、「Y2K」に関する知識を共有させ啓蒙し、スケジュールどおりに、システム対応を完了させる、すなわち「Y2K」対応を最終的に完了させる為の調整役であった。
 当然、各チームには個別に事情があるので、調整はスムーズには運ばないことが多く、毎日駆けずり回りながら根気よく折衝を繰り返すことになる。帰宅時間も深夜零時を回ることがざらであり、週末には諸報告のとりまとめに追われ、休む暇は全く無かった。
 つまり、従来から彼が携わってきたコンピューターシステム開発そのものの業務とは趣が異なり、折衝と報告ものなど書類のとりまとめが仕事の大半を占めていた。そこに彼の近頃の憂鬱がある。
 実際、柴崎はこのプロジェクトを担当して暫くしてから、憂鬱な気分にとらわれることが多くなっていた。残業続きでろくに休みもとれない為、過労気味であることもさることながら、システム開発の現場の業務を長く勤めた彼には、折衝、調整という、対人関係を中心とする職務は畑違いのように思え、ストレスが増大していたのである。
 毎日のように数々のチームから理不尽な要求を突きつけられ、そのくせ柴崎の出す指示には強硬なクレームをつけてきた。そのような激しい言葉の応酬の中に身を置いた事がなかったので、彼の神経は日に日にすり減っていった。
 加えて大蔵省を中心とする当局が各銀行の「Y2K」対応状況をこと細かく指導し、口を出してくるため、その対応にも追われ大きな心理的負担がのしかかっていた。
 当局は、「Y2K」に関して完了期限と基準を設けており、一定の条件をクリアーしない銀行は市場から追い出すとまで言っている。柴崎が、諸報告に追われる多くの相手先はこの当局であり、それゆえ報告作成には細心の注意を要した。
 定期的に大蔵省などを訪れ、進捗状況を説明することも職務のひとつだが、官僚にまるでやくざまがいの暴言を吐かれて脅かされ、大きな心理的ショックを受けたこともある。大蔵省にしてみれば、日本の大手銀行が万一にでも「Y2K」で問題を起こすようなことがあれば、世界的な信用問題に発展し金融不安の再燃にも繋がりかねないことから、各行に強い圧力をかけるのは当然であろう。
 そんな中で柴崎は日々の仕事をこなしていたが、梅雨時に入り彼の体調は益々悪くなっていた。
 まず、朝の起床時には身体が重く、起き上がるにはまるでいくつもの鉛の球を持ち上げるほどの力を要した。起きてもしばらく頭痛と吐き気が収まらず、腹痛が激しいので、何とか気力を振り絞って身支度を整えるために時には二時間を要することもある。だから、早朝五時には起床しなければ間に合わない。一方帰宅は、毎日午前零時ごろであるから、睡眠時間も満足にとれない有様であった。
 そういう彼を心配し、妻の美由紀はしきりに休養を勧めるのだが、柴崎は断固として受け入れなかった。そのうち妻もこの仕事に取り憑かれたような夫に愛想をつかしたのか、以前のように身体を心配したり、励ましの声をかけることもなくなり、黙って毎日這うように会社にでかけていく夫を静観するようになった。
 そんな時、美由紀が朝食の際にふいに言った。
「あたし、しばらく千葉の実家に帰ります」
 柴崎には、反論の余地がない。ここ数ヶ月夕食も共にしていないし、夫婦らしい会話もない。孤独な妻が実家に帰ろうとすることを止めるだけの説得力を今の彼は持ち合わせていなかった。
「わかった」
 柴崎は力無くそう返事をすると、いっそう激しくなった頭痛を堪えながら、会社に出かけていった。
 こうして柴崎は思わぬ独身生活を強いられることになった。

 その朝も特に頭痛がひどかった。牛乳一本とコーヒー一杯だけすすって、柴崎は出社した。すると彼が席につくや否や、直属の上司である伊藤次長から呼びつけられた。次長の席の前に棒立ちになっていると、伊藤次長は堪えきれなくなったように呻いた。
「君は何を管理していたんだ」
 柴崎は返答に詰まった。嫌な予感がした。とんでもなく大きな事件が勃発したに違いない。
 伊藤次長とは長い付き合いなので、顔色をみれば心の内を大抵読むことができた。紫色をした極めて血色の悪い表情に加えて、充血した赤い目をしているところを見ると二日酔いかもしれない。だが、二日酔いを差し引いても伊藤次長の引きつった表情はかなり危うい状況を意味していた。
「Y2K対応がもれているシステムがあるんだよ!Y2K対応が必要か否かの調査、洗い出しは全システムについて昨秋終わっているんだ。それこそしらみつぶしに調査したはずだ。にも関わらず、全くY2K対応がなされていなくて、スケジュールすらたっていないシステムが見つかったんだ」
 伊藤次長は吐き捨てるように言った。
 事の子細はこうである。
 先月8月に「Y2K」の最終確認を目的とし、関係するシステムを連結させた大々的なシステムのテストを行ない、ほぼ百%近く「Y2K」対応は完了したと思った矢先、全く対応されておらず誤作動を起こしたシステムがたったひとつあった。そのシステムは、数名の銀行業務の現場の職員がパソコン上で作成したようなごく小さなシステムであったため、ここまでの調査の網に引っ掛からず、見落とされてきたのであるが、重要な業務に使われているシステムだった。
そもそも「Y2K」対応は、システムの大小を問わず、業務の上流行程から下流まであらゆる側面で使われるコンピューターシステムやインフラについて調査を行い、対処しなければならない。どこか一角でも破綻すると影響は周辺に拡大していく地震のような性質を持った問題だ。
 従って、今回のケースもシステムが小さいがため洗い出しの段階で漏れていたのが原因であるが、言い訳にならなかった。柴崎は何度も繰り返し各部門の現場で働く職員にヒアリングをかけて、遊び半分で作ったゲームソフトの類まで残さず網羅していたはずだった。しかし現実には、漏れは存在し、しかもかなり重要な業務に関わるものが見落とされていた。
 柴崎は、当然自分の責任であることを自覚していた。「Y2K」対応完了の最終期限は9月末であり半月後に迫っている。この間に当該システムの調査と対応を完了しなければならない。それが、二〇〇〇年を迎えても問題なく銀行業務を継続するためのデッドラインであり、対大蔵省の観点からいっても守らなければならないガイドラインである。しかし、対処方法はすぐには思いつかなかった。
 柴崎は動転していたのである。自分の席に戻ると、頭を抱え込んで机にこすりつけた。頭痛は、今や耳鳴りに変わり、半鐘を鳴らす音が左耳と右耳の間でステレオ効果のように行き来していた。視界がぐるぐると回り始め、柴崎は吐き気を覚えて、堪えきれずに慌てて立ち上がると、医務室に駆け込んだ。
「一度、病院でちゃんと診てもらったほうがいいですよ」
 医務室の職員が頭痛薬をくれると言った。
 柴崎も最近の健康状態を思い、近日病院に行こうと考えていたところだった。幸いにその日の頭痛は薬が効いたのか、少しおさまった。
 席に戻り落ち着いて問題の解決方法を考えてみた。小さなパソコンシステムだから、人手さえまかなう事が出来れば数日で対応を終えることは可能に思えた。問題は人である。どのプロジェクトも皆残業続きでぎりぎり一杯のスケジュールでやっているわけであるから、小規模とはいえ突然降って沸いたような案件に充当できる余力は無かった。この危機を救うには、何か他のプロジェクトを遅らせなければならない。
 柴崎は、この際「Y2K」最優先と考えた。「Y2K」と直接関係のないプロジェクトから半月限りの約束で一時的に要員を応援に回してもらう。それしか解決の方法はない。
 「Y2K」と関係のないプロジェクトはひとつだけだった。それはそれで金融規制緩和に向けた新商品を扱う重要なプロジェクトであるが、この際背に腹はかえられない。柴崎はプロジェクトの担当次長に直接お願いした。
「ふざけるな!」
 最初に先方の口をついて出た言葉である。無理もなかった。先方のプロジェクトとて期限を切られている中、昼夜にわたる長時間労働により何とかスケジュールを持ちこたえている状態なのである。応援を出したら遅延することは確実だった。
 しかし柴崎は食い下がった。地べたに額をこすりつけるようにして、「Y2K」最優先であること強調し、真摯に懇願した。そして何とか数名の応援を得ることができた。
 柴崎は早速獲得した要員を集めて緊急会議を開き、「Y2K」対応の手法と今回問題となった小規模システムの概要を説明し、要員の知識向上と共有化をはかると、作業に取り掛かった。
 まず問題のシステムの解析を行わなければならない。このシステムはここまで使う側の都合だけで放置されてきた訳であるから、仕組みを細かく説明している文書は存在しない。システムがどのような機能を持ち、どのような構造で作られているのか把握することから、始めなければならなかった。一方期限はあと二週間後に迫っている。柴崎は、数名の要員を二つのグループに分けて、昼夜交代二十四時間体制で作業に当たらせた。当然一切の休日は許されなかった。
 昼夜交代とはいっても、統括リーダーは柴崎ひとりであるから、彼自身は仮眠程度しかとれなかった。ほとんど家に帰らず、職場に泊まり込んで、作業の進捗を見守った。日に日に柴崎の顔に焦りと疲労の色が濃くなっていった。恒常的に続いていた頭痛もこうなると眠気と疲労が拡大しすぎてもはや感じない。時々目眩や腹痛に襲われることはあったが、正直それどころではなかった。倒れたくても倒れることが許されない。むしろ何らかの病で病院にかつぎ混こまれた方がどれだけ楽だろうか。
 だが幸いなことに、応援で得た要員は極めて優秀なメンバーばかりだった。常識を疑うようなせっぱ詰まった状況の中、柴崎がたてたスケジュールどおりに作業を進めて、ひとつのミスも犯さなかった。もちろん劣悪な労務環境に不平不満も出たが、仕事自体はきっちりと仕上げてくれた。そうして二週間後の期限の朝、全ての作業は完了し、問題のシステムの「Y2K」対応は無事完了したのである。
 全ての作業が完了した朝、柴崎は頑張ったメンバーに心から礼を言うと、伊藤次長に完了報告を行った。伊藤次長は、満足そうに満面に笑みを浮かべ、柴崎の肩を叩いて激励した。その日は、さすがに朝そのまま帰宅し休ませてもらうこととなった。
 帰宅の途につきながら、柴崎は不思議な感覚に襲われた。周りは皆これから出社しようとしている通勤途上のサラリーマンでいっぱいだ。その人混みの中を逆方向に自分だけが帰路についている。昼と夜が逆転したような気持ちの悪い錯覚に襲われた。
 心身ともに崩れ落ちそうに疲れ果てていた。痛い、眠いを通り越して、陽射しの暖かさや車の騒音や、街並みを彩る木々の色まで今の柴崎には何も感じなかった。亡霊のように電車に乗り、足音も立てずに家路を歩いていた。
 そしてまた公園に通りかかった。
 柴崎は、ふと思い出して公園の中に足を踏み入れた。学校が始まったばかりの時間だから、朝の公園には誰もいない。と思った矢先に、またこの間と同じように奥のベンチに少年が座っていることに気がついた。やはり背中を丸めて、両手に挟んだ物体を一心に見つめている。遠目にもこの間と同じプリズムであることがわかった。
 少年の側に近寄ると声を掛けた。
「君学校には行かないのかい。小学生だろう」
 少年は答えない。その姿はぴくりとも動かない。
「それをずっと見て何をしているんだい。何が見えるんだい」
 再び訊いてみた。答えは返ってこない。柴崎は、またこの少年の持っているプリズムを覗いてみたい衝動に激しく駆りたてられた 。先般気分が悪くなったことは覚えている。だがどうしてもあの中を覗いてみたい。少年が何を見ているのか知りたい。
「またおじさんに貸してくれるかな」
 柴崎がそう言うと、少年は何も言わずに水晶玉のような目玉を柴崎の方に向けると、プリズムを手で差し出した。柴崎は、受け取ると期待と不安に胸を踊らせながら、三角錐の頂点から片目を閉じて覗いてみた。
 すると今度は目の前で赤と緑と青の三色が溶け合って渦巻きのように回転している光景が目に入った。渦巻きは不規則に不安定に渦の中心に向かって回転し、自分が飲み込まれてしまいそうだった。丁度船酔いと同じ感覚がまた柴崎を襲い、腹部から吐き気がこみ上げ、目眩と頭痛が激しくなった。そして渦巻きが爆発するように波状に拡散したかと思うと、柴崎は失神寸前になり、プリズムから目をそらした。そして、目を閉じたまま、その場に座り込んでしまった。
 十数分間だろうか、そのままの姿勢で気分が回復するのを待ってから、柴崎は二、三度頭を振ると目を開けて立ち上がった。
 ベンチではまた少年がプリズムを覗いていた。

 柴崎は朝九時に目を覚ました。妻は実家に帰ったきりで、家の中は人気がなく静かである。
 先般起きた「Y2K」関連の事件を何とか乗り切ったので、生活は一応通常ペースに戻っていた。だが、あれ以来目眩と頭痛、腹痛と病的な身体症状はひどくなる一方であったので、柴崎は病院で精密検査を受けていた。検査の結果は「異常なし」であった。
 病院の下した診断は、「心身症」だ。即ち、検査結果が示すとおり、脳や視神経、胃や腸などの消化器、肝臓等のあらゆる内臓にいたるまで障害は認められず健康である。にも関わらず、強い目眩や頭痛、吐き気などの病的症状を訴えるのは、全てストレスなどの精神的要因によるものとしか考えられない。これが「心身症」である。
 「心身症」を治療するには、身体ではなく心を治療する必要がある。近年、この手合いの病気が増えてきており、従来の精神科や神経科とは違った形で、心の癒しを目的とした治療を行う「心療内科」が増えてきているという。柴崎は同じ病院の心療内科にかかることになった。
 今日は、通院日である。そのためいつもよりも遅い目覚めとなっている。治療を受けてから、出社する予定である。心療内科に行くのは、今日で二回目だが、一回治療を受けてみて、その効果のほどは甚だ疑問であると感じていた。会社での立場や処遇、ストレスの有無などについて訊かれたが、それが一体何だというのだろう。企業に勤めている以上、部下に腹を立ててみたり、上司から怒鳴られたり、納期が迫って不眠不休のハードな状況が続いたりすることは当然あるし、それがストレスで病気の原因だというのなら、会社で働くな、といっているのと同じ事だ。
 柴崎は、いくつかの心理テストも受けて、結論的には「ストレスがたまっている」「リフレッシュが必要」ということだった。だが柴崎には全てそのような事が、まるで意味のないゲームに過ぎないと感じていた。唯一役に立ったのは、精神安定剤のような薬を出してくれたことである。確かに薬はそこそこ効いているようで、頭痛の程度は弱くなったように感じていた。だが、目眩も吐き気も大きく改善することはなく、柴崎は半ば治療を諦めていた。
 その日も、簡単なカウンセリングがあったが、特に目新しい事もなく、二週間分の薬を処方されて解放された。柴崎は、相変わらず重い足取りで会社へ向かった。
 夏が終わり、秋を迎えた頃、柴崎に関西出張の話が持ち上がった。銀行のシステム開発部門は小規模ではあるが一部関西にも存在する。関西でも同様に「Y2K」対応を進めており、東京の本部部門の対応もほぼ完了した今、最後の細かい摺り合わせを両部門で行おうというのである。これまでも両者の打ち合わせは何度か行われていた。ただ、従来は東京が舞台だったのであるが、今回は柴崎自身の目で関西の対応状況も最終チェックするように指示を受け、打ち合わせを関西で行うことになったのである。
 柴崎自身も今回の出張は少し楽しみでもあった。というのはもともと柴崎は神戸の出身であり大学までは神戸で暮らしていたので、古い友人も多くは関西に住んでおり、今回の出張は彼等と再会するのに好都合だったからである。東京に移り住んでもう二十年近くになるが、その間は仕事に追われて会う機会がなく、手紙のやりとり位であったから、より一層期待に胸が膨らんだ。
 早速古い友人に連絡をとり、週末の夜に大阪で会う約束をした。出張は三日と短期であったが週末にかけての滞在だったので、お互いにうまく仕事の都合がついたのである。
 大阪にあるシステム開発部門との「Y2K」に関する打ち合わせは順調に終わった。柴崎自身の目で現地の対応状況を確認したが、漏れはなく万全の体制が敷かれていた。東京における対応状況を柴崎はつぶさに説明し、東と西の歩調を合わせて共通認識を得ることが出来た。出張の目的は、意外と容易に果たすことができた。
 柴崎は、金曜日の全ての仕事を大阪の支社で終えると、定時に退社し、そのまま友人との待ち合わせのバーに向かった。
 丁度七時を過ぎた頃、バーに着くと友人は既に来ていた。友人の名は清水浩二といって、柴崎と同じく四十歳だ。小学校からの付き合いでいわば幼なじみである。
「いよお、久しぶり」
「本当に久しぶり」
 お互いに、声を弾ませて肩を叩きあった。柴崎の目からは、清水の容貌は多少老けて見えるくらいで学生時代とほとんど変わっていないようにみえた。相変わらず、長身で痩せぎすであり、ぶ厚い眼鏡をかけている。無造作に伸びた髪の毛にはかすかに白髪が混じっている。自分自身はどんな風に見えるだろうか、きっと疲れ切って痩せ衰えた中年男に見えるのだろう、と柴崎はふと考えたりした。
 話は大いにはずんだ。幼少の頃の思い出話から最近の仕事の状況に至るまでお互いに語り合い、酒を酌み交わした。
 清水は、小さな音楽スクールでギターの講師をしている。実は柴崎もギターが得意である。二人は学生時代にロックバンドを結成して、アマチュアのコンサートなどに出場したりしていた。社会に出てから、柴崎は銀行に勤め、以来忙しさに埋没してろくにギターを弾くことはなくなったが、清水はそのまま趣味を仕事にしてしまった。さすがに音楽家としてプロになることは出来なかったが、薄給といえども音楽スクールで好きなギターを教えて生計を立てているというのは、柴崎から見れば羨ましく思えた。
 事実、清水には子供が一人いて、彼の月給だけでは生活を支えられないので、妻もパートで働いており、決して楽な生活ではない。だが、その顔色はすこぶる良く、溌剌としていた。好きな仕事をしているという満足感からくるのかもしれない。
 それに対して柴崎は、顔色が悪く痩けた頬をして、原因不明の頭痛や目眩に悩まされ、ついには心療内科から処方される精神安定剤や睡眠薬に頼っている始末だ。いやそれよりも何よりも、自分は十数年間続けてきた今の仕事に誇りや満足感を感じているのだろうか。柴崎は何度も自分に問いかけてみあたが、答えは出ない。何か胸の奥につっかえたものがあった。吐こうと思ってもどうしても切れない痰のようなものが喉にある。
 そんなことを思い巡らしながらも、二人は朝まで飲んで語り合った。柴崎にとって何年ぶりかの楽しいひとときであった。そうしてまたの再会を約束してふたりは翌朝の始発で別れた。
 柴崎は、大阪にとったホテルに戻ると、一眠りするつもりだった。帰京は明日の予定だから、今日一日はゆっくりできる。だが、ベッドに潜り込んでもいっこうに眠くならなかった。酔いはとうに醒めているし、身体はくたくたに疲れてもいる。だが、眠れない。
 目を閉じると、先ほどまで共に騒いでいた清水の笑顔が脳裏に現れてくる。そして何故彼は自分の仕事を楽しめるのか、何故自分は今の銀行の仕事に誇りを感じないのか、とそんな疑問ばかりが頭をかすめていった。
 答えは判っていた。清水はギターが好きだった。そして好きなギターを職業にした。では柴崎は、銀行の仕事が好きで、銀行員になったのか。そうではなかった。柴崎は自分が銀行という職業を選んだことに特に大きな理由がないことに気がついた。高収入で安定した職業につければよいと安易に考えた結果の選択だった。
 柴崎はさらに考えた。自分は一体本当は何をやりたかったのか、と。
 全く不思議なことに、このようなことを考えることすら、この十数年間で初めてのことだった。銀行に勤めてからは毎日殺人的スケジュールに忙殺され、自分のことを考えることすら忘れていたのだ。今、こうして久しぶりに大阪を訪れ、ホテルのベッドに横になりながら、四十になる中年男が自分の人生について初めて問いかけているのだった。
 自分はいったい何になりたかったのか。
 柴崎は中学生から大学生になるまで一貫して抱いていた夢を思い出した。彼は、無類の読書好きでかつ自分で創作することも幼少の頃から好きだった。実際に大学生の時まで彼は何作かの小説を書いていた。銀行に勤めてからも当初はまだ時間的に余裕があったので書くことを続けていた。書いた小説は、友人に読ませる程度で実際に出版社に応募したりすることはなかったが、いつか自信が持てる作品が書けるようになったら応募して将来は小説家になろうと夢見ていた。ところがこの夢は十数年前から頭の片隅に追いやられ、いつしか自分自身でも思い出せなくなっていた。
 昨日、清水と会って彼の満足そうな笑顔をみたことが、柴崎に忘れていた夢を突如として思い出させることとなった。
 小説家になりたい。
 ずっとそう夢見てきたのである。何故その夢を捨ててしまったのか。柴崎は唇を噛みしめて心底悔しがった。夢を捨てずに、あのまま続けていれば、どうなっていただろうか。小説家になることができたかどうかは別として、全く違う人生があったに違いない。少なくとも薬に頼る今のような情けない状態にはならなかったのではないか。そう考えると自分の勇気の無さに怒りすら感じてきた。そしてもうひとつの声が彼に呼びかけた。
 今からでも遅くはない。
 柴崎はぎょっとした。一瞬目の前に火花が散るような錯覚を覚えた。思わず横たえていた上半身をベッドの上に起こして、腕を組んだ。もう朝の九時である。だがいっこうに眠くなるどころか、頭が冴えるばかりだ。
 今からでも遅くはないのだろうか。自分に問いかけてみた。過去に書いた小説は全てファイルにしまってある。十数作あり、文章を手直しすればそれなりに格好がつくような代物もあった。また、目を閉じて考えてみると色々と新しい小説のテーマが浮かんできた。年をとった分、得た経験が若い頃よりも想像力に幅を持たせてくれているのかもしれない。
 書きたい。もう一度、小説を書いてみたい。そして小説家を志してみたい。柴崎の心は灯がともったように安らぎと暖かさに満たされた。そしてそれは次第に大きくなり、熱く燃えさかる炎となって胸の中を駆け回った。初めての激情だった。こんな気分になるのは、生まれて初めてだ。
 結局、その日柴崎は眠るのを諦め、一日中ホテルの部屋のソファに座り、頬杖をつきながら考え事をしていた。
          四
 柴崎が東京に戻って、数日後祝賀会が職場で催された。いよいよ「Y2K」対応も完了したので、伊藤次長や柴崎を始めとして、このプロジェクトに関わったメンバーの慰労会というのが祝賀会の主旨である。
 祝賀会は会社の近くの中華料理店で行われ、総勢五十名近くの多人数となった。実際にはシステムの開発に携わるほとんどの要員が何らかの形で本プロジェクトには関わってきているので、これでも役職クラス中心に出席者を絞り込んだ結果なのである。
 もちろん一番の功労者は柴崎であった。彼はこの祝賀会の主賓と言っても良かった。多くのメンバーが柴崎にねぎらいの言葉をかけ、柴崎もまた皆に酒をついで礼を述べて回った。
「とにかく本年最大の課題であったY2K対応がこうして皆さんの力で何とか完了することができたことをうれしく思います。どうぞ今夜は思う存分飲んで食べて騒いで下さい」 伊藤次長が挨拶をのべた。次は柴崎の番だった。
 柴崎は、ナプキンで口を拭うとテーブルにおいて、立ち上がった。そうしてしばらく言葉を選ぶように間を置いて話を始めた。
「まずはプロジェクトの完了を心からお祝い致します。色々と苦労が有りましたが、無事終えることができたのはみなさんが一丸となって問題に立ち向かったおかげだと思います。本当に有り難う」
 会場から拍手が起きた。柴崎は、いつもよりも顔色が良かった。今は、頭痛も目眩もおさまっている。
「Y2Kプロジェクトは一旦きりがつきますが、実際に二〇〇〇年を迎える時まで息を抜くことはできません。でもみなさんの団結があれば必ず無事に二〇〇〇年を迎えて、皆で新年を祝うことができると信じています」
 柴崎は続けた。「Y2K」に関してはもはやこれ以上語るべき事は無い。時は来た。彼が今日の祝賀会のために用意しておいたスピーチはこれから始まるのだ。
「この場を借りまして、皆さんに言っておきたいことがあります」
 柴崎は一呼吸おいた。目が少し光を帯びて輝いた。
「実は、私は今月末で銀行を退職致します」
 きっぱりとした口調でそう言いきると、周囲がどよめいた。
「伊藤次長にも本日初めて申し上げるので、甚だ恐縮なのですが、私なりに十分考えたうえでの結論です。実は私には昔から夢がありました。それは、小説家になるという夢です。長い間仕事に没頭していて忘れかけていたのですが、先日あることがきっかけで十数年ぶりに思い出しました。不思議なものですね。ずっと忘れていたのにいったん思い出すと、その事ばかりが頭を支配し始める」
 そう言うと柴崎は、子供のように無邪気に微笑んだ。
「成功するかどうかはわかりません。とにかくやみくもに小説を書き、自分の力を試してみるつもりです。これまで十数年筆を休めていた分を取り戻すのに時間がかかるでしょうが、今は何百枚、何千枚でも書き続けることができるような気さえします」
「ちょ、ちょっと、待ってくれ」
 伊藤次長が、グラスを持つ手を震わせながら、遮った。
「柴崎君。君は、近い将来次長になり、部長になり当行のシステム部門を背負って立つ存在なんだぞ。小説家なんて夢のようなことをいって、出世コースを棒にふるなんて常識では考えられないよ。仕事で疲れているんだ。考え直したまえ」
 柴崎は、伊藤次長を涼やかな目で見ると答えた。
「夢だから追いたいのです。ここにはもう私の追うべき夢はありません。一から夢をもう一度追ってみたいのです。私の考えは変わりません。内々に人事部にも話をしてあります。退職したら、神戸の田舎に帰り、創作活動に励むつもりです。本当に皆さんにはお世話になりました。この場を借りましてお礼を述べさせて頂きます」
 そういうと柴崎は、席についた。場内は静まり返っていた。彼のテーブルに同席した者達は皆箸を止めて、呆気にとられたような顔をして柴崎の方を見ていた。だが暫くすると、場内の端々から小さな拍手がまばらに聞こえ始めた。そうして拍手の音は少しずつ大きくなり、最後には声援に変わった。
「柴崎さん、がんばってください!」
 柴崎は、思わず涙が出そうになるのを必死の思いでこらえながら、四方に深々と頭を下げた。
 この夜の祝賀会は、もっぱら柴崎の書く小説のジャンルや題材が話題の中心となっていた。
 帰宅すると、家の灯りがともっていた。柴崎は、もう随分とアイロンひとつかけていないくたびれた上着を脱ぐとネクタイを緩めて部屋に入った。すると予想通り美由紀が食事の支度をして待っていた。
「食事済んじゃったみたいね」
 照れくさそうに笑っている。
「今日、祝賀会があってね。すまん、君が帰っているとは思わなかったから」
 柴崎は、もどかしそうにズボンを脱ぐと普段着に着替えた。
「お風呂わいてるよ。それから……」
「何だい」
「会社辞めるの賛成よ、わたし」
 美由紀はそういうと柴崎に背中を向けてスーツの皺を丁寧に伸ばしてから、タンスにしまった。振り返った顔には、ここ数ヶ月の間に憔悴しきった表情の中に、柔らかな笑みが浮かんでいる。
 柴崎は、また涙がこぼれそうになるのを我慢して、自分の妻の小さな肩を抱き寄せた。

 柴崎は、銀行での最後の勤めを終えて帰路についていた。夕暮れ時でまだあたりはほのかに明るい。駅を降りるといつもの道を通って家に向かっていた。そうしてまた公園のそばまで来た。
 確信めいたものがあった。きっと今日もあの少年はいる。ベンチに座ってプリズムを見ている。
 公園に入るとまっすぐに奥のベンチに向かった。案の定、少年はベンチに腰をかけて、まばたきひとつしないでプリズムを覗いていた。いつも測ったように同じ位置に座って同じ服を着て同じ表情をしている。まるでベンチに飾り付けられたマネキンのように。
 やはりあのプリズムをどうしても覗いてみたい。少年が何を見ているのか知りたい。柴崎は少年のそばに歩みよると、声をかけた。
「また覗いてみたいんだ。貸してくれるかい」
 少年は静かに視線をプリズムから柴崎に移すと、小さな首を縦に振って、その三角錐を差し出した。
 柴崎は手に取ると、左目を閉じて右目でプリズムの真上から中心を覗いてみた。
 
 虹だ。
 七色の虹。
 そして藍色の空気。
 七色の光の線が微妙に重なり合い、混ざり合い、太い筆で描いたように帯状に伸びている。時々星が瞬くように周囲で光の粒が点滅している。帯は果てしなく空の遠くまで続き、最後には霧になって七つの色が拡散してゆく。
 歌が聞こえる。
 男か女か解らない。幼い子供の声のようだ。優しく透明なソプラノが何か懐かしく切ないメロディーを奏でている。穏やかな気持ちになり、このまま眠ってしまいそうになる。
 いつまでもそのまま見ていたくなる光景。安らぎと調和に満ちた音楽。
 このままずっとこうしていたい。
 
 突然景色が夕暮れの公園に戻った。
 少年がプリズムを取り戻したのだ。少年は、茶目っ気たっぷりに柴崎に舌を出してみせると、また取り戻した彼の宝物に見入り始めた。
 柴崎は、その場に立ちつくしていた。心が凪の時の海のように平静で、蝋燭の灯がともったように暖かかった。
 そして、暫くして自分の顔が涙でびしょぬれであることに気がついた。

(2001年作)

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