見出し画像

予算の作り方

経営の重要なツールである予算につき私見を書いてみる。

世に予算を「正確に策定する」議論は多く見受けられるものの、なぜ予算を建てるかに対してストレートに述べたものはあまり見ない。
「なぜ」がなければ「どのように」は導けない。

予算とは経営からのメッセージ

予算は、スタッフの行動を促すための仕様書

CEOは、これを肝に銘ずるべき。
「見通し」で予算数値を作る人は経営していないと宣言しているのと同じ。
一方、単なる気合を書いてしまう人も、メクラ運転になるのでハタ迷惑。

仕様書は以下の二つの機能を持つ。

① 経営の方向をメッセージとして打ち出す
予算は言語表現であると割り切る。
・大幅増益としたい場合
会社や置かれているステージによって「大幅」を表現する数値は異なり(30%増、倍増等)、スタッフの感覚と一致しなければ効果は半減する。
・次年度以降の飛躍のため、あえて踏み固めることを伝える場合
前年度比ピッタリ増減ゼロにすると非現実的に感じ、予算が空虚になる。微増益と置くのが正解。この場合、間違っても微減益にしてはならない(後述)。さらに、次年度以降の飛躍も同時に見せておかなければ、単なるじり貧への転落と気が緩むため、単年度のみの提示は決して行ってはならない。
・100億円達成を目指させたい場合
大台は分かり易いので指針になりうる。「その数字には意味があるのですか?」と問われたら、「これは秘跡だ!(質問者の宗教によって単語は変える)」と真顔で返す。

② スタッフが進捗管理=軌道修正できるためのロードマップとする
・スタッフがイメージできる最大の単位をセグメントとして設定する(全社ではピンとこない。他方、細かすぎても経営人材が育たない)。
・勘定科目は、行動に移すことができるものに集中し(いわゆる管理可能経費)、それ以外は定期報告では網掛にでもしておく。減価償却費、オフィス賃料が典型的で、単なる雑音。進捗会議で、「大家が家賃上げろといってるんだよね」、「そりゃケシカラン」といった与太話で時間が浪費される(お前は関係ないだろ!)。

予算策定のプロセス

CEOは、正確な実績数値の分析を行った上で、まずは、次ぎに何を目指すかを決める。その後、目指すポイントに向かって進むためにスタッフに取ってもらいたい行動を思い描く。
方針を経営陣(+主力スタッフ)に提案し、各部門(セグメント)のヘッドに方針に基づく「部門予算」の作成を指示する。
同時に、CEOは独自に、方針実現に資する行動を促すためにどのような数値「表現」にするか考え、全体予算(+部門予算)の大枠を作成する。

CFOは、CEOの素案が「論理的に」破綻していないかをチェックする。
この場合、実現確度70%超であれば可。確からしさを90%にするための「修正」をしてはならない。メッセージが消えてしまう。
どの道100%にはならないので、70%と90%とは「誤差」だ。

指示しておいた部門予算の妥当性をチェックしつつ、全体予算との不整合につき検証し、各部門を整え全体予算とする。

取締役は予算の精度を検証するが、この場合の「精度」とは予測の正確さではなく、CEO(及び執行グループ)の「考えの精度」。従って、CEOには決算についての説明責任も、検証の意味で同じ重さで存在する(取締役会はこれらをCEO続投か否かの判断材料とする)。

経費&投資は意思

上述の前提は、そもそも刻々と環境が変わる中では思った通りにことが運ばないとの現実。
少しでも目標に近づくために全社をいかに駆動するかの知恵だ。

しかしながら、経費及び投資は異なる。
経費として誰かに盗まれるわけでも、投資として天災である竜巻がカネが巻き上げるわけでもない。
これらは完全に経営の意思の中にある。

制御の精度で言えば、売上は環境によって変動が大きいので完全にはコントロールできない。
売上総利益(率)はビジネス構造の問題で短期では変化しない。販管費は短期に意思を反映させうる。利益は売上の影響が大きく同じくブレる。

経営指標として売上、利益は重要だが、実際には環境要因の方が大きい。
他方、経営者がどのような思想を持っているか(≒経営品質)は、経費・投資活動を見れば一目でわかる。
これは、経営実体験から学んだことだ。
あまたのテキストでは、コスト削減以外の脈絡で議論されないので惑わされてはならない。

赤字予算(or 減益予算)は大罪

赤字にならざるを得ない時は、絶対に隠蔽してはならない。一回嘘をつくと、果てしなく連鎖し、何のために経営しているか分からなくなる。
また、赤字を計上するのであれば、二つの点に留意する必要がある。
・この赤字計上は「将来」の何の為かを明らかにする
・一発で済ます(赤字に慣れたら会社は終わる)

上記は例外として、非常時以外は赤字予算はありえない。

一スタッフの日々の行動が、そのまま全社利益に貢献することは極めて稀だが、彼/彼女は予算の詳細は分からないまでも、メッセージは受け取る。
増益予算が掲げられていると、(全員ではないが)もうひと頑張りするか、と腕まくりする余地が出る(頑張りではなく、「もうひと頑張り」)。
赤字予算だと、それがなくなる。ずるいスタッフなら「今年度は赤字だから年度内に成果を出しても賞与に反映されない、次年度にとっておくか」とすら考えかねない。
ボートレースのコックス(最後尾に座って状況を見極め声掛けする舵手)の鼓舞は勝敗に大きく影響する。
強い会社と弱い会社との差は、この「もうひと頑張り」があるか否かだ。
綺麗ごとではなく、会社の価値は、一スタッフのわずかな踏み込みの集積なのである。

赤字予算(or 減益予算)は、それを封じ込める猛毒。

売上は2本値が望ましい

なかなか管理は難しいが、2つの数値を持っておくといいだろう。
1.全ての「施策」がうまくいった場合の数値
・その時点での実力の上限、つまり夢の天井。
思いつけないこと、準備できていないことは実現するわけがない。
「その次」を目指すために有用。
・注意すべきは環境の良さを織り込んだ楽観論を展開しないこと。あくまでも意志ある施策による楽観数値。
2.現実的と考えられる数値
・現実的とは、スタッフが「頑張った」上でぎりぎり達成できそうな数値という意味。馬なりの数値ではない。
・通常はこれを社内予算とする。経営、スタッフ双方のコミットメントだ。

なお、上記は「シナリオ分析」ではない。
意思を二色で表したたものだ。

年度予算の位置づけ

単年度予算は、それだけ独立して策定することはできない。
大きな流れの中の当年度と考えるのが妥当だ。
では、中長期はどう考えるか、そもそも何をどのようにメッセージにすればいいのか、と疑問が湧くかもしれない。
やや話は飛ぶが、ヒントになるかもしれないので昔話をする。

経営と予算 ー 大義と一貫性

私は20代後半、地方支店での3年の個人営業を経て、野村證券の総合企画室(野村の頭脳?ww、MoF担、株主対応もこの部署)に在籍していた。

年間計画を立案する場に接し、自分ならどう作るかと考えてみた(勿論、駆け出しのチンピラなので参画はしておらず、あくまでも脳内シミュレーション)。
当時の野村のプレゼンス、勢いは圧倒的で、バブル前夜ではあったが、どんな数字も現実的な気さえしていた。

ところが・・・

数値が思い浮かばない。
利益50億なのか5000億なのか、自由に決められるとなると、数値が全く浮かばない。
20%増益、市場成長のアウトパフォーム等々、比較対象がなければ、頭の中にぽっかりと真空ができてしまう。
この瞬間、経営者しか予算が作れないことが理解できた。
経営者になるための修行として野村に入社した私は、なぜかゾクッと武者震いがした。

訓練の身としては、思考停止してはならない。意味の解読に視点を移し、一人経営シミュレーションを続けた。
当時、野村は、「資産営業への転換」を謳い、預かり資産25兆円作戦(金額はうろ覚え)を現場に落としていた。
本社に来て初めて、収益の相当部分を債券部門が稼いでおり、債券は相対取引なので、顧客の保有資産を掌握し、野村を「取引所」にしてしまうことが収益に直結する、従って資産を(実質的に)預かってくる意味があることは理解できた(この辺りの事情は支店では見えない)。
ところが、支店で展開されていたのは株式の回転商い(過当売買)で、資産残高と収益とはリンクしていなかった。
当時の野村は、予算=ノルマであり、犯罪に堕ちさえしなければ何があってももぎ取ってこいという社風だった。
資産営業への転換を言うのであれば、新しい「稼ぎ方」を具体的に示し、予算も変更しなければならない。しかし、提示も変更もなかったため、現場は混乱した。資産管理にすれば収益が確実に落ちることは全員理解していたからだ(どちらが建前でどちらが本音だ?)。
結果、預かり資産作戦は、対外的な方便で、戦略商品の中期国債ファンド(銀行預金に類似し、税制優遇もついた投信)は「導入商品」と解釈され、回転商いは継続した。中国ファンドで入れた資金を、どのように株や株式投信に「ひっくり返す」かが、現場の目標になった。経営の本音は収益向上にありと現場のコンセンサスが形成されたわけである。
戦略と予算(=戦略メッセージ)とに一貫性を欠くと、どうなるかにつき身に染みた。

では、そこまでして過当売買をする大義は何なのか。
流通市場から資産形成する顧客は実際には存在し(実物を見たことがないみたいな表現ってね)、流通市場が活性化することで発行市場が機能し、ひいては日本の経済発展に繋がる、という理屈だった。
しかし、それでも回転商いの大義にはならない。
収益を追い詰めるのであれば、顧客の資産増、あるいは資産額の何%までしか手数料は取れないと、上限を設定するべきではなかったのか。無論、そんな簡単な話ではないが、議論は進めるべきであった。早晩、売買回転率の上限が設定されたが、新しい稼ぎ方の提示は依然としてなかった。

おそらくトップマネジメントは弊害を理解しており、実際に過当売買からの脱却を目指していたのだろう。
如何せん、そこからの詰めが甘かった。

たまたま同時期に、年金資産の運用、投資顧問業の導入等、アセットマネジメント(なぜか、この分野では資産管理とは言っていなかったw)が「個人営業とは別の脈絡で」課題になっていたために、リテール戦術として消化する前に安易に資産管理と謳ってしまったのではないかとすら思える。
アセットマネジメントにつき全社プレゼンされた際にも、多くの営業担当幹部は「ファンドにしたら売買し放題だしな」などと話していた(勿論、違法です)。冗談だろうが、それを上書く具体的な戦術が提示できていなければ冗談の芽は手の付けられない蔦の森になる。軽々に生煮えの方針を発言すべきではないだろう。

以上が、当時の思考に若干補正を加えたものだが、経営経験を積んだ今となってみれば、経営者が心底肚落ちしている大義が不明確だったからだと推察できる。
さらに言えば、野村のOS(文化、operating system)の強靭さを甘く見ていたのだと思う。変えるなら徹底的に不退転でやり抜かなく覚悟が出来ていなければ、方針を曲解してでもOS上で動こうとするエネルギーには抗えない。
35年前の話だが、今は改善されているのだろうか。。
(以上は、リテール=個人営業に限定した内容を事例としました。投資銀行部門はまた別の話です)


話が長くなってしまったが、これはいつの時代でも当てはまる。
大義、戦略、メッセージ、これらに一本背骨が通った状態にするのが経営の仕事だ。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?