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ラカン理論でTwitterを読めない(笑)


お茶代でラカン読むか(笑)
500ページ近くある本のうちのたった1行すら理解できずだんだんイライラしてきてしまいにはてんめこのやろと書いた人間に殺意が湧く、という貴重な読書体験をみんなと共有したい(笑)


まあ哲学関係の書物ならいくらか類例は見られるだろうけど、それはあくまで書き言葉の領域において、だ。
ラカンがヤバいのは、話し言葉も書き言葉と同じくらい、いやそれ以上に理解不能だということ(笑)
講義録とかでこのわからなさは、やはり空前絶後(笑)


しかし、『エクリ』第1巻の冒頭に置かれた『盗まれた手紙のセミネール』(探偵小説の始祖エドガー・アラン・ポーの名探偵デュパンものの一作『盗まれた手紙』を、精神分析の“反復強迫”という概念を例証するものとして解読するラカンの講義録)は、ミステリーファン必読だと思う。
必読だとは思うが、あらゆる意味で責任は取れない(笑)


昨今のインテリ嫌悪の風潮や「バカ(=「俺」)にも理解できる文章を書けるやつだけが本物の知性」といったバカ免責の論理には「俺にわからない文章を書くとは何様のつもりだ!」という上から目線の奢り、というか「すべての手紙は私に宛てて書かれている」という単なる思い違い、もっと言うと「わざわざ俺にわからない文章を書くとは·····さては貴様俺を馬鹿にしているな!(いったいなにを企んでいる?)」という誇大妄想が潜んでおり、バカ肯定、ちゃんと言うと「世の中がどう変わろうが俺だけはなにも勉強せずずっとこのままでいい」という無根拠な自己免責の論理は、いつか必ずパラノイアを発症させると思う。
陰謀論とか、もう既にそうなっている。
バカじゃない人、ちゃんと言うと「すべての手紙が私に宛てて書かれているわけではない」という当たり前の前提を謙虚に踏まえ「特に私に宛てて書かれているのではない手紙を“盗み読み”、理解するためにはそれ相応のコストが必要となる」と考えきちんとそのコストを支払おうとする(勉強する)人には、こうした誇大妄想的な世界観が上手く想像できない。
要するに僕の言う「バカじゃない人」とは「自分がバカでありこの世界の盗人に過ぎないことをよく心得ているために、逆説的にそれら二つの属性から逃れ出ようと努力する人」のことを指している。


それでいくと、ラカンの『エクリ』はバカもバカじゃない人もみなひとしくパラノイアを体験できるというか、「わざわざ俺にわからない文章を書くとは·····貴様なにを企んでいる!」という誇大妄想に浸れること間違いなしなので、ラカン読書会は人類の分断を食い止めるための重要な契機にもなり得るだろう(笑)
少なくとも「貴様、わざと俺にわからないように書いているな!?そんな嫌がらせをしてなにが楽しい!?」ぐらいは誰もが思うはず(笑)




SNS、特にTwitterの問題点は、まさにこの「すべての手紙は私に宛てて書かれている」という誇大妄想を誘発し、掻き立てることだ。本来なら自分の意に沿わないツイートは「どうやら私に宛てて書かれた手紙ではないようだ」と判断し、“盗み読む”のをやめればいいだけなのだが、いわば手紙の方から目に飛び込んで来るTwitterにおいては、そうすることがなかなかに難しい。
Twitterは使用者をほとんど自動的に誇大妄想患者(パラノイア)に変えるひとつのシステムなのだ。
システムに逆らうことは容易ではない。
とはいえ、われわれが取るべき行動はやはり「すべての手紙が私に宛てて書かれているわけではない」という当たり前の(あらかじめ失われた)原則を何度でも思い返すこと、そして「そもそもここでやり取りされているのは言葉ではなく、言葉とよく似たうどん(別に他のなんでもいいのですが)である」と多少強引にでも自らに言い聞かせることしかないだろう。
あなたを生かし、あなたが誰かを生かすための言葉は、きっとTwitterの外にあるはずだからだ。



とはいえ厄介なのは、こうした誇大妄想にはある程度まで正当な根拠が認められるという点だろう。
Twitter上の言語=ツイートを、「万人に宛てた手紙」として捉えるなら当然その中に「私」は含まれるはずだし、「宛先が書かれていない手紙」と捉える場合にも「ひそかに私に宛てられている」可能性は否定できない。
要するに、Twitterを「だれかしらに宛てられたなにかしらの言葉が書かれた手紙」が飛び交う空間として、身近なものの比喩の延長として考える限り、われわれは永久にパラノイア症状の発作から逃れることができない。
最初からそういう仕組みになっているのだ。


そこから逃れるためには、「Twitterは手紙ではなく手紙とよく似たなにかが飛び交う空間であり、そこに記されているものは言葉ではなく言葉とよく似たなにかである」といういまひとつの個的な妄想を、システムが強制する誇大妄想にぶつけて相殺するしかない。
妄想には妄想を。
これは実際的かつ戦略的な提起だ。
僕がいつも「Twitterで使われているのは言葉ではなく言葉とよく似たうどん」などと言っているのはそれなりにシリアスな意味を含んでいるわけだ。
「少なくともそーゆーふーに考えないと、自分も含めみんなパラノイアになってしまう」ということなのだ(笑)


では、その「言葉とよく似たなにか」「手紙に擬態しているなにか」とはなんなのか?
つまり、Twitterとは本当はなんなのか?
それを明らかにする、あるいは思いきりよく無視して捨てる、のが今後のあなたとわたしの課題になってくるはずだ。
なんにせよ、焦らずのんびりいきましょう。



時間軸をパスタのように茹でてゆるやかにねじ曲げた場合、ラカンは明らかにポーの『盗まれた手紙』を通してTwitterについて語っている、と受け取れる箇所がある。
あくまで手紙の比喩を貫徹するなら、Twitterは、ラカンがポーの作品中における「盗まれた手紙」の心理的な存在様態を指して言っている“保管中の手紙”という概念に近いものだと言えるかもしれない。

われわれはこのような理由から、われわれを導いている対象そのものによってまわり道をしているのだと確信することになります。われわれを捉えているのは、まさしくまわり道をさせられた手紙なので、その道のりは延長 pro-longe(これは文字通り英語ですが)されたのです。あるいはまた郵便用語を借りるならば、それはまさしく保管中の[取りにこない]手紙(lettre en souffrance)なのです。

われわれの寓話アポローグが作られたのは、主体の登場や役割を左右するのは手紙とその回り道であるのを教えるためです。手紙が保管中である場合そのことで苦しむのは彼らです。彼らは手紙の影を通り過ぎることによってその反映になります。たまたま手紙を所有することになるとーー言葉のたいそうな曖昧さですーー彼らに取り付くのはその意味になります。


つまり、たまたま手紙を所有することになったがために(ツイートが向こうからわれわれの目に飛び込んでくるために)、そこに記された“言葉とよく似たもの”のあいまいさにわれわれは苦しみ、その意味(と受取人が解釈したところのもの)だけに取り付かれてしまうのだと。
こうしてツイートは(本当の受取人が取りにこない)“保管中の手紙”としての特権的な匿名性を保持したまま、われわれを受取人として理不尽にも指名することになる。
なんという一方的で勝手気儘な暴力性!
無論、以上は僕の意識的な誤読に基づく強引な解釈に過ぎないが、なにかしらヒントになりそうな予感はする。


恐るべきことに読んでるうちにだんだんわかってきた。
手紙を盗まれた人物(王妃)がだれが盗んだかを知っているために、当の盗んだ人物(大臣)は、盗まれた人物にとっての“(私の真実を)知っていると想定される主体”の位置、❝絶対的主人の地位❞へと移行する。
王妃が被分析者、大臣が分析家の関係?

デュパンがいつ自分で手紙の象徴的回路から身を引かなければならないのか、これはおそらくわれわれに関係したことであると考えるのは実際に当然のことではないでしょうかーーわれわれもまた、保管されるいっさいの手紙に対してその密偵になるのですから。




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