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わたしたちが幸せになるには? 〜余暇の是非編〜

どうも! わたしです!

今回は、余暇についての話です!

余暇があるからくだらない事を考えてしまい、
死にたくなる。

なんて事、誰もが一度は聞いた事があるはず。

でも、そんなこと言われたら現代人なんて、
みんな死にたくなりますよね!

というわけで、今回は余暇について考えていこうと思います!

まずは、概要から!

人生の楽しみを自己の外部に頼る人は、すぐに退屈をしてしまい、享楽的な楽しみに耽る。
精神的欲求がない者にとって余暇は良くない。
とショーペンハウアーは言った。

現代の人々は余暇に退屈をするどころか、
休みが足りないと言っている人が多い様に思える。
しかしながらこれは精神的欲求の現れではなく、
他人と比較をして、自分の立場を嘆いているだけ。

余暇、つまるところ休みの日や、
長い夜に死にたくならない様にするために
ショーペンハウアーの言う、内面の富を得られる様にしていこう。

それでは、詳しく説明していきます!

1.精神的欲求がないから余暇に退屈をする

まず、退屈とはどういった事なのでしょうか。
辞書を引いてもいいのですが、面倒なのでwikiを貼ります。

退屈(たいくつ)は、
なすべきことがなくて時間をもてあましその状況に嫌気がさしている様、
もしくは実行中の事柄について関心を失い飽きている様、
及びその感情である。

この定義でいけば、余暇に何かする事がないから、
退屈をする、と言う事ですね。
嫌気がさしていると明記されているのは面白いです。

ではなぜ、退屈をするのでしょうか?

ショーペンハウアーはこう言いました。

自由な閑暇をもつというのは、
人間の通常の運命にとっても、
人間に生まれながらそなわる通常の自然な本性からみても、奇異なことと思われる。
自分と家族の生存に必要なものの調達に時間をついやすのが、
人間の自然の定めだからである。
人間は必要に迫られてようやく何かをなすように生まれついた、
いわば困苦の子であって、自由な知性を本質とするわけではない。

人は本来獣だから、仕事が無い時間が長すぎると
持て余す、という事ですね。

ショーペンハウアーは、
この仕事がない時間を持て余してしまう人々を
精神的欲求がないもの、俗物として罵っています。

精神的欲求があれば、
余暇は知的好奇心を満たすために活用される。
それは満たされる事がなく、
また知的好奇心の対象は無限にある為、
退屈をする事はない。

しかし、それがない俗物は官能的な事で退屈を凌ごうとする。
それについてのショーペンハウアーの言葉は、

俗物にとって真の楽しみは、官能的な楽しみだけだ。
これで埋め合わせをする。
したがって牡蠣とシャンパンが人生のクライマックスであり、
肉体の幸せに寄与するすべてを手に入れることが、
人生の目的となる。
俗物はこれで大忙しなら、十分幸せなのだ! 
俗物はこうした財宝をあらかじめ授かっていると、
必ず退屈してしまうのだから。
退屈しのぎに、舞踏会・芝居・社交的集い・トランプ遊び・賭け事・馬・女・酒・旅行など思いつくすべてを試みる。

あまりにも悪口で笑いました。
ショーペンハウアーも悪いやつだな。

しかもここから、俗物には精神的欲求がないから、
これらから精神的楽しみは得られず、
結局退屈しのぎにはならない。
いずれ底をつく現実的なものを必要とするから、
財産を食い潰すか、退屈を持て余すか。
といった事まで書いています。

なんだか私たちにも見覚えのある話ですね。
退屈をするから、ガチャを引く。
誰かに自慢をするために引き続け、
もやしを食べる羽目になる。

そういった事をショーペンハウアーは
言っているのだと思います。

2.余暇が足りないのは精神的欲求からではなく、単に他の人と比較しているだけ

ショーペンハウアーは、

凡人にとって自由な閑暇はまもなく重荷となり、
あげくのはては苦痛となる。
また同じ理由から、「余暇の安らぎにこそ危険がある」という言葉はもっともで、
自由な閑暇は危険をもたらすこともある。
しかし他面、標準をはるかに越えた知性も同様に尋常ではなく、
それゆえ自然に反する。
だが標準をはるかに越えた知性をそなえた者は、
自由な閑暇を持てなければ、
軛につながれたペガサスのごとく不幸になってしまうので、
そうした天分に恵まれた人間の幸福には、
他の人々にとって重荷となり、有害ともなる自由な閑暇が不可欠である。

こんな事いってますが、
標準をはるかに超えた知性。
こんなものがわたしたちにあるわけでねえです。
それはわたしにも、あなたにも言える事です。

わたしたちが自由な余暇が足りないと嘆くのは、
インターネットでホワイト企業がどうとか、
公務員はどうとか。
そういった話を聞いて他人と自分を比較しているだけ。

わたしの後輩に、20時間残業したら、
これは大変なことです。友達に言われました。
と言っていた人がいました。
これは完全に友人の境遇と、自分の境遇を比較して
羨ましくなっているだけです。

何故なら後輩の仕事は、確実に残業がある仕事で
それを説明されてからついています。
それなのに何故かそういった事を言う。
これは他人が羨ましくなってしまったと思うのが、
筋が立っていると思います。

残業したらその分お金もらえるんですよ!?
とわたしは思ってしまいますけどね。

ちなみにその後輩は7時に来て、何もしてねえのに7時からつけてました。
当然全員から、だったら8時に来いと殴られてましたが。

3.精神的欲求を持つためにはどうしたらいいのか


標準をはるかに超えた知性を持たなければ、
精神的欲求は得られない。

そんなこともあるわけはないです。

ショーペンハウアーは、

必ずしも卓越した知力ではないが、
それでも並みをかろうじて上回る知力の持ち主を想定してみよう。
彼はたとえばディレッタントとして美術をたしなみ、
あるいは植物・鉱物・物理・天文・歴史などの実際的な学問に従事して、
前述の外的源泉が停滞したときや、
もはや外的源泉で満足できなくなったときは、
すぐに楽しみの大部分をそこに見出し、
リフレッシュすることだろう。
この点で、「彼の重心はすでに部分的に彼自身の内部にある」と言える。

なんか難しい事いっていますが、
つまるところ自分自身の内部から、
内向的な動機で行える事を見つけようと言う事ですね。

前回の記事で書いた事がここで役立ちます。

自分自身の持っている趣味、ないしは仕事を、
承認欲求の段階を超えるところまでいける様にしましょう。
そうすれば内向的な動機で行う事ができます。
前回の記事でいうところの自己実現ですね。

概要で言っていた、内面の富も漸くここで繋がります。

内面の富、精神の富ほど信頼できるものはない。
なぜなら、精神の富が卓越性の域に近づけば近づくほど、退屈が入り込む余地がないからである。
思考は無尽蔵に生き生きと、内面世界と外面世界の多様な現象にふれることで絶えず新たに活動し、
それらを常に違った風に結びつける力と欲求が働くために、
疲れが出るわずかな瞬間を除いて、
卓越した頭脳は退屈とはまったく無縁なのだ。

みなさんも内面の富を得られる様、
承認欲求を超え、自身を超えられる様に研鑽していきましょう!

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