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読書記憶①「パイロットフィッシュ」

本を読んで、感想を話す。または書く。

シンプルなことなんだけれど、なかなか続けられない。

目の前に人がいれば感想は話せるのだけれど、毎回そうもいかないので、noteで「読書記憶」として書いていこうと思う。

読書「記録」としなかったのは、最近読んだ「パイロットフィッシュ」という小説に“記憶”という言葉が繰り返し出てきたから。

記録と記憶のちがいについて熱く語りたいわけでもないけれど、「読書記録」だとなんとなく、真面目に何か残さなくてはいけない気分になる。

真面目に残そうとすると、まだ言葉になっていないあやふやな感覚も、無理矢理言葉にはめてしまう気がする。

でも“記憶”なら勝手に残ってしまう。
あやふやな感想も書きやすいかもしれない。

そのようなわけで「パイロットフィッシュ」の読書記憶を書いてみたい。ただし、あらすじをまとめるのが甚だしく苦手なため、それを元から諦め、読んだ方にしか通じない感想になると思う。

なぜこの本を勧められたのだろうか

先日自分のnoteで、人が人と話すことで生まれるものの不思議さについて書いた。

この投稿を読んだ方から「パイロットフィッシュ」(大崎善生、角川書店)を読むようにお勧めをいただいた。

失礼ながら大崎善生さんという方を存じ上げず、初めて読む本。しかし読み終わった今は、次はどの作品を読もうか…と探す頭になっている。

私が主人公として読んだのは、山崎隆二という男。彼に関する何を書いてもネタバレになる気がする一方、ネタがばれると面白さに影響が出る小説なのかどうかはわからない。

ただ少なくとも、「これこれこんな男で」と書くのはためらわれる。

その代わり彼の思ったことや言葉から、人物が少し見える気はする。

人は、一度巡り会った人と二度と別れることはできない。なぜなら人間には記憶という能力があり、そして否が応にも記憶とともに現在を生きているからである。
一度出会った人間と、一度発した人間と、人は二度と別れることはできない。十九年ぶりの由希子の声を聞いた瞬間にそれが由希子だとわかってしまうように、記憶には計り知れないものがある。その記憶の残像に縛り付けられながら、僕は今という時間を生きていかなくてはならないのだ。

初めの引用は、物語の冒頭部分。次の引用は中盤を少し過ぎたくらいのところだ。

冒頭部分を目にしたとき、「過去の思い出が忘れられない感傷的な人間の語る何か」かな、とやや斜めに眺めてしまった。

タイトルで検索したときも「昔の恋人が…」「切ない恋愛小説…」といった言葉が次々と出てきて、正直勧めてくれた人がどうしてこの本を勧めたのか、ピンとこなかった。

今思えば、読む前から勧められた理由を理解できるわけはないし、検索で出てきた言葉で内容を知った気になるのはもっとおかしいのだけれど。

でも「少なくとも、過去の人が忘れられないという意味合いでnoteの投稿をしたんじゃないんだけどなあ~」と細い目をさらに細めながら読む。

*

気付けば2時間ほど経っていた。

読み始めたら、止められなくなってしまった。

面白い、とはちがう。怖い、ともちがう。

どうしようもないなと思いつつ、でも共感するところがあって、共感というよりは共鳴のようなもので、傷をえぐられるようなところもあって。

あと、なぜか安心感もあって。

たぶん自分の中に山崎と似たところがあって、彼が感情を大きく表現しないながらも感じているものの大きさ、強さを淡々と言葉にしてくれるからかもしれない。

「君がたとえ僕の前からいなくなったとしても二人で過していた日々の記憶は残る。その記憶が僕の中にある限り、僕はその記憶の君から影響を与え続けられることになる。もちろん由希子だけじゃなくて、両親やナベさんや、これまでに出会ってきた多くの人たちから影響を受け続け、そしてそんな人たちと過した時間の記憶の集合体のようになって今の僕があるのかもしれないと考えることがある」
「記憶の集合体?」

物語も終わりが見えてきた時、彼のこの言葉を読んで私は理解した。いや、理解した気になった。

きっとこの言葉があるから、この小説を勧められたのではないかと。

この小説が与える記憶

「パイロットフィッシュ」は、深夜に読みたい小説だ。

23時頃から読み始めて、数時間かけてゆっくり読み、読み終わると同時に眠ってしまいたい。何時間か眠って朝になり、目が覚めたときにこう思う。

『あれ、夢だったかな』

どこかに存在するかもしれない山崎や由希子、ナベさん家族。可奈や七海。

山崎と由希子の会話。バイカル湖。

おぼろげに記憶に残り、現実を生きていくなかでふと気づく。

読まなかった自分と読んだ自分とを、ほんの少し分けるものがあることに。


別れは存在しないのか

いったん別れよう、という選択肢がある。

「今は考えがちがうみたい」「いつかまた機会があれば、その時は」という態度でもって、人と人、あるいは会社と会社という存在どうしが別れを決めることがある。

「パイロットフィッシュ」を読み終わった翌日、家入一真さんのnoteをシェアしている人がいて、そのタイトルが目に飛び込んできた。

一期一会だとか、繋がりを大事にしようだとか、そういう話では無くて。むしろ、そうやって“繋がり”を大事にしようとするあまりに、お互いに固執し、不毛な時間ばかりを過ごした挙句、相手も周囲も、そして自分さえも傷つけて、悪感情を抱いたまま別れることだってある。
人との繋がりはストックでは無く、フローで。小さな世界で生きている僕らは、たとえ別れたとしても、生きてる限り、またどこかで合流したり、共に歩むこともある。そういった意味で、すべての別れは一時的なものであり、最終的にそれぞれが幸せになるためにある。

そう、すべての別れは一時的なものだ。

“絶対”の別れは存在しないし、同様に“絶対”の合流・再会も存在しない。きっといつかまた出会える、という薄明かりの希望をもって別れる時は、それまでがんばろう、という気持ちにもつながるかもしれない。

かなり唐突だが、ドラマ「アンナチュラル」の中堂先生の恋人、夕希子(こっちも“ゆきこ”さん)は、殺人犯の手にかかる前、父親への電話でこう言っている。次回手がける絵本は“2匹のカバの話”だと。

「一緒に暮らしてると甘えちゃうからさ、しばらく1人でやってみる」
「でもいつか、また2匹に戻って、一緒に旅するんですよ~」

いつかまた、と希望を抱いての別れが、永遠の別れになることもある。もう二度と、と思った別れが、ふとしたことで合流地点に導かれることもある。

自分の意志だったり、意志でないところで起こる歯車の回転。

先ほどの家入さんの投稿は、どちらかというとビジネス面での出会いと別れについてに焦点を当てたものかもしれない。けれど、仕事でも交友関係でもなんでも、出会いと別れの本質はそう変わらないのではないかと思う。

最後にまた家入さんの言葉。

「そういや、あいつ元気かなあ」とお互いに思える限り、きっと、別れは別れではないんだろう。

元気かなあと誰かに思いを馳せられることも、何かの歯車が回ってまた出会えることも、当たり前のことではない。

そう思うと、人の存在というものがどんなに儚くて、同時に力強いものかということを考えさせられる。

出会ってしまったら、別れは来ないのだ。記憶は残り、その人をつくっていく。命そのものは儚いけれど、その存在は決して弱くない。

今立っている場所にどんな景色が見えていようとも、“私はそれを手に生きていくのだ”とひっそり感じる正月だった。


#パイロットフィッシュ #出会いと別れ

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