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ほんもののことばを。読書記憶④「声めぐり」

感動しやすい質なのか、「今まで出会ったなかで1番だ」とすぐに言いたくなってしまう。

1番なんて軽々しく言うものじゃないし、きっとまた次の1番があらわれる。

そう思いつつも、これは本当に1番かもしれないと思う本に出会った。

写真家・齋藤陽道さんの本。

本の帯には「聾する身体をもつ写真家が、声と世界を取り戻すまでの珠玉のエッセイ」と小さく入っているのに、齋藤さん自身はこう書いているからおもしろい。

この本に書いたことは、自伝でもなく、エッセイでも、写真論でもない。声めぐりの旅へ踏み出す一歩を支えてくれた現象についてである。


『異なり記念日』との出会い

同時刊行の『異なり記念日』(医学書院)を以前、読んだ。

聴者の家庭で育った齋藤さんと、ろう者の家庭で育ったまなみさん。結婚した2人の間に生まれた『樹(いつき)さん』は、聴者だった。

“異なる”3人の毎日が丁寧に描かれていて、齋藤さんの目線で語られる世界がすごく好きで、ずっと大切にしていようと思った本だった。

たしかほぼ日の糸井さん(じゃなかったかもしれないが、ほぼ日のどなたか)がSNSでこの本を紹介していたんだと思う。出会えてよかった…としみじみ感じた記憶がある。

『声めぐり』との再会

先日、終了間近の写真展を観てきた。

齋藤陽道さんの展示があるということをTwitterで知って、行こうと思っていたのだが、ちゃんと日にちを決めずにいた。

すると映画を観に出かけた際、すぐそばでこの写真展をやっているということを知ったのだ。なんたる幸運!

翌日までの会期だったので本当にタイミングが良く、じっくり観て回った。

そしてグッズ売り場で『声めぐり』を見つけ、以前読みたいと思ってそのままになっていたことを思いだす。

『異なり記念日』と同時に刊行されていたのに、どうしてその時に読まなかったんだろうなあと不思議に思った。

これから読むというのに変な表現かもしれないけれど、この本とここで「再会」した、という気がした。

ほんもののことばを。

『異なり記念日』の時もそうだったけれど、好きな文章が多すぎてページがぼろぼろになる。耳をたくさん折るからだ。

特に心に残った言葉は残しておきたい。

たとえ、どれほど表情や動作、つむがれる言葉が貧しく、違和感をもって感じられたとしても、その人の裡も同様に貧しいと言い切ることは、絶対にできない。貧しく見えるのは、貧しい器でしか測ることのできない自分のせいであるとし、語り得ないものを抱える存在ほどに豊穣を抱えている。そう見きわめるべきだと思った。

自分に言われているのではないかと思うほど、ぐさっと刺さる。

ぐさっと、ではないかもしれない。そういう衝撃的なものではなくて、心に重く静かに沁みこんでいくような感じ。でも決して抜けない。

私自身にやや吃音があるからか、小さい頃から「滑らかに話せる」ことへの執着が強かった気がする。

すらすら話せたり生き生きと意見を言えること、何でもたくさん語れることが良いこと、すごいことだと思っていた。

ここ数年、やっとその呪縛を自分で解き始めている。

その人の内側で何が起きているのかは、その人にしかわからない。その人にもわかっていないことがよくある。当然、その人以外の人が決めつけることは、1ミリもできない。

それなのに、私はどうしても他人に対して批評的だった。

自分が押し込められるのは嫌なのに、他人のことは同じ箱に押し込めようとする自分が嫌で仕方なかった。

だから「語り得ないものを抱える存在ほどに豊穣を抱えている。そう見きわめるべきだと思った」という齋藤さんの言葉には、救われる一方で自戒の念も抱く。

私が生きるうえで携えたいのは、この言葉だったんだと思う。


齋藤さんは、石神井ろう学校に入学するきっかけになった先生のことも書いている。

ほんもののことばは、語ることのできない意味に満ちている。
ほんもののことばは、時間をかけながら、 こころの片隅で静かに花を咲かせる。
ほんもののことばは、目に見えぬやさしい手として、 こころに当てられている。

毎日毎日、どうして言わなくていい言葉をかけてしまうのだろう。どうして、かけるべき言葉を見失うのだろう。人と話してもnoteを書いても、その自己嫌悪感は消せなくて、言葉というものがぜんぶ嫌になることがある。

自分の吐き出す言葉なんて、こんなに浅はかで無力ならば価値はない。そう感じることが多くて、人と比べてばかりで苦しい。

言語化に長けているだとか、言葉のセンスがいいだとか、ちょっとほめてくれる人はいる。

でも、そうじゃない。

私がしたいのは、情報の言語化じゃない。

うまく言ってのけることでもない。

もっと、心が乗った言葉をもちたい。もしかしたら、音声にする必要すらないような言葉を。目が合うだけで、手が触れるだけで伝わるような言葉を。

私という存在そのものから発せられる言葉を。

そうは言っても、生きていく

ほんもののことば。それは一体、どこにあるのだろう。

何をしたら、生みだせるのだろう。

私が今言いたいと思ったことは、ほんもののことばだろうか?

そんなことを考えながら、これから先は生きていくのかもしれない。

でもきっと、自分の言葉を嫌いになる日々は続くだろう。

納得がいかなくて、なんとかしようとして、自分以外の声に惑わされて、いい気になることもあれば落ち込むこともあるだろう。

そうすることでしか、生きてはいけないのだという気がする。

ほんもののことばに目を懲らしながら、自分を見つめ人を見つめ、行きつ戻りつするしかないのだ。

何かを掴んだように思える瞬間を、とらえておきたい。掴んだ気になっているということもあるかもしれないし、1つの突破口になるかもしれない。

口先の言葉に、惑わされないこと。

ほんもののことばについて、考え続けること。


それが、私はどう生きたいか?という問いにつながるような気がしている。




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