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書き手を想う、読み手になりたい。

ひらやまさんのnote作用

最近、心がよく泣く。

といっても、寂しさや悲しさからではない。


自分が気になっていること、大切にしたいけれどできていないこと、つまりは憧れのようなこと。それを言葉にしてくれる人がいるとき、その言葉を目にしたとき、うっすらと涙が出てきてしまう。

ひらやまさんのnote「『読むこと』の本質」、前編から後編まで読むと体にいろいろな作用がある。

まず、胃のあたりがぽかぽかとあたたかくなる。

呼吸が落ち着いてくる。

同時に、脳はすっと静かになる。

この「静けさ」を私は特に感じていて、どんな喧噪の中で読んでいても、どんな窮屈な空間で読んでいても、少しひんやりとした森の湖のほとりで文庫本に目を落としているような、そんな感覚になる。

書き手に並走し、勇気をもたらす読み手

今回のnoteの後編「『読むこと』の本質は、人を想うことだ」の中ではひらやまさんの、良い読み手と言われる人たちに対する考えが綴られている。

人からの信頼を集める彼らの眼差しは、書き手よりも書き手のことを想っているように見えます。
書き手本人が感じ取れない可能性や魅力を開示して、出所の見えない強烈な力で、書き手のことを信頼して推していく。

ここを読んだとき、ふと想い浮かぶ方がいた。

私が書いた「天職創造セミナー」についてのレポートnoteを、参加者グループで投稿したのだが、それを読んでこんな感想をくださった方がいる。

わかめちゃん※の話と文章は、寄り添って近くから観察している感じと、少し離れたところからその空間全体を第三者的に傍観しているようなひろがりのある感じと、両方感じてた。立体的、というとすこしありきたりになっちゃうから違う。奥行きがあるとゆうかね(^_-)

※わかめ…あおやぎのニックネーム

他にもいろいろな方が感想をくださってどれもありがたいなあ、と感じたのだが、特に上の言葉がじんわりと嬉しかった。

上手いとかすごいとか、自分で自分の文章をそう評価したことはないし、私が他人でも恐らくそうは思わない。

ただ、自分であまり気づいていなかった「寄り添って近くから観察している感じと、少し離れたところからその空間全体を第三者的に傍観しているようなひろがりのある感じ」という視点をいただけて、私は静かに感激した。

私はそんなふうに人の文章を読めるだろうか。内容にいちゃもんをつけず、褒めそやすでもなく、ただ、「その人を見守る」ような読み方ができるだろうか。書き手よりも書き手を想うような読み方が、できるだろうか。

ひらやまさんの言う「出所の見えない強烈な力で、書き手のことを信頼して推していく」は、こういう読みの結果、生まれるもののことを言うのではないだろうか。

私の場合は“信頼されている”とまで言ってしまうと大げさかもしれないが、あのコメントをいただけたことは私の「書こう」という気持ちを間違いなく推してくれている。

けなされて奮起する、対抗心があるから書こうという気になる。そういう人もいるかもしれない。

ただ自分に関しては、安心感やあたたかい握手に似た言葉のほうが、力になる。ただ受け入れてもらえるということとも違う、「並走者」のような存在。一緒に考えていくよ、と言ってくれているような存在。

そんな存在を感じた時、書く勇気が湧いてくるのかもしれない。

「読むこと」で自分と出会いなおす

noteで、twitterで、その他SNSやWEBメディアで。そしてもちろん書籍で。あるいは芸術で。

私たちは日々様々なものを「読んで」いる。

琴線に触れてしかたないものもあれば、通りすがりにショックを与えていってしまうものもある。

でもそこにある読みの体験に、1つとして同じものはない。

他人と自分の読みは違うし、今の自分と小学生の頃の自分も違う。

だから正解・不正解はなく、あるとしたら「人は読むことで、自分と出会いなおす」ということではないだろうか。

あなたは元気な子、あなたはおとなしい子、あなたは優しい子。

社会の中で生きていれば、誰でも何かしらの「わたし」を得ていく。わたしはこんな人、これができるあれができる、こんな人は好き、嫌い。

しかし「読むこと」で、人は知らなかった自分と出会うことがある。

自分がどんな人間か、読むことを通して知ることがある。

そういう意味では、もしかしたら私たちは「読んだもの」よりも、そこで出会った「自分」に驚いたり悲しんだり、喜んだりするのかもしれない。

書き手を想う、読み手になりたい

ふと感じたことをつらつらと書いてみたのだが、私は結局どうしたいのか。

自分に問いかけたとき、「良い読み手になりたい」という声が聞こえた。

読むことは好きだし、情熱があると思う。でも今現在、良い読み手とは言えない気がする。書き手に寄り添いながらも、読み手としてその細部をとらえ、内容について考察を深めたり時には問いを投げかけたり。そういう態度がまだまだこれからと感じるし、書き手としての自分が感激したような「並走」はもっと遠いようだ。

それでも、書き手でいようとする限り、私は良い読み手でありたい。

読み手としての自分が誰かを幸せにできたら、それが私を幸せにする。

「並走していますよ」「あなたの言葉は、こうやって届いていますよ」と伝えられたらどんなにいいだろう。

目に見えないものを文字という形にして、言葉という輪郭を持たせて届けてくれた人に、精一杯手を振りたい。

「ここにいます」と伝えられる人。そんな存在になりたいのかもしれない。









読んでくださってありがとうございます!