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発信する手が止まる1年間、それでも人生は続くので書くことにした

こんばんは。竹口和香と言います。半年ぶりに鬱抜けしました。さて、私のこと覚えていますか?発信をほとんどしなくなってから、気づけば1年弱ほど時間が経っていました。


この文章は、何者でもない28歳の女がこの1年何をしてたかを記録して明日を生きてみようとするものです。離婚、精神疾患、摂食障害、再婚の話題を含みます。


簡単にこの1年くらいのことをお話しすると、前の旦那と離婚をして、仕事を探して、持病の双極性障害とADHDと共存しながらひょんなことで摂食障害が再発しかけて、先日結婚して苗字が変わって、今に至る感じです。


とにかく自分の生命と生活を維持することに必死で、こうして落ち着いて文章を書くことや、言葉を紡ぐことすらままならなかった日々を過ごしていました。言い訳ですが。


ちょうど1年前の今ごろ、前夫と離婚しました。離婚というのは不思議なもので、紙きれ1枚用意するだけで自分の1番の味方が赤の他人になるというイベントです。自分の中の大切な部分がビリビリとちぎられる感覚。例えようもない孤独感から、一人でお風呂に入れなくなったり、夜が怖くて親に添い寝してもらうような状態が続きました。”心理的安全性が保たれる家庭”を知らない私に、安心を教えてくれた人を失うというのは、生きる場所を失うことと同義でした。自分で終わらせておいて、「人生終わった」と思いました。これが3組に1組起こるイベントだなんてどんな時代だよ、なんて思ったりもしました。


離婚をして、手元に残ったのは沢山の思い出と少しのお金だけでした。居場所はない、それでも生きていかなければいけない。双極性障害とADHDの発症で休職、退職をしていた私は仕事を探すことになりました。

当時私が住んでいたのが兵庫県の郊外。持病の状態を考えると、大阪へ1時間半の通勤をするのは困難でフルタイムも怪しい。では、障がい者雇用は?となるも、エージェントから出た答えは紹介可能な求人なし。持病や何かしらの事情があって働くことにハンデを持つ人が働ける選択肢があまりにも少なすぎる、そう強く思う毎日でした。前職で障がい者雇用の支援をしていた時も感じていた「もっと障がい者の個に柔軟な雇用枠であるべきだ」という思いを、当事者として目の当たりにする経験でした。いつかまた、障がい者雇用や障害福祉に関わる仕事をしてみたいと思っています。


結局運よくフルリモートフルタイムの一般枠で就職した私ですが、持病を抱えながら毎日コンスタントに働くのは想像以上に過酷なものでした。想像できない躁鬱の波や睡眠時間の波に振り回される毎日、ADHDからくる注意欠陥でケアレスミスを起こし自責する毎日。「私がいない方がいいんじゃないか」「こんなこともできないなんて給料をもらう資格がないんじゃないか」と自分を責めては、家でオイオイと泣いていました。フルリモートってよくも悪くも、ひとりなんですよね。自由であり孤独。どちらかというと私はフルリモートの環境に適していない人間のようです。


仕事と同時に「気持ちを切り替えて新しいパートナーを見つけなきゃ」と焦り、プライベートではもっぱらマッチングアプリをしていました。知らない人と出身地やら趣味やら休日の過ごし方やら、毎日同じ質問をして、されて、の繰り返し。誰が誰かもわからない状態で食事の約束をしては、足繁く大阪に繰り出す週末を送っていました。そして毎度心の中で引っかかるのは、離婚歴と病歴。離婚歴はアプリのプロフィール欄に記載しているからいいものの、持病や過去の摂食障害について打ち明ける作業といったら疲れるどころの騒ぎじゃありません。とはいえ、病気も含めて私を受け入れてくれる人でないと安心して向き合えない。会って2時間もしない目の前の人に、自分の薄暗い部分を話して相手の出方を探る行為と言ったら。「見えないね」「意外だね」という些細な言葉がちくりと胸を刺し、時には大きな傷を負うこともありました。


今の旦那と出会うまでに数名お付き合いをしたのですが、中には「俺と一緒にいたら安心して寝れるでしょ?だから睡眠薬飲まないでよ」なんて言う人もいました。人それぞれ物事の受け入れ方は異なりますが、精神疾患に限らず相手への触れ方には丁寧な自分でいたい、いろんな人と出会ったからこそ改めてそう思います。そして、精神疾患が身近なものではないと思ってる人がまだまだ多いということも目の当たりにしました。15人にひとりが生涯でうつ病になるって知ってるのかな?見えないだけですぐ隣にいるって想像したことはないのかな?精神疾患に限らず、さまざまなマイノリティにおいて「想像する」「知ろうとする」ことの大切さを学ぶ機会が多くありました。


そして忘れもしない2022年10月。6年間も顔を出さなかった摂食障害の症状がぶり返したのでした。その頃は、双極性障害の影響で体重が13kg落ちた状態から徐々に体重が増えてきたとき。少し体重が気になり始めて食事制限をしていたころに、「あ、これ以上いったら(増えたら)やだ。」と、久しぶりに自分の体重を強く意識しました。炭水化物を抜く、間食を止める、運動をする、色んなことを少しずつ試しましたが体重は増える一方。腰のあたりが肉づいていくのが、骨ぼねしかった身体が女性っぽくなっていくことが、あのころと同じように受け入れられなくなっていました。


摂食障害の再発については、ちゃんと、詳細に残したいので、別で書きます。


一度寛解したといえ、過食嘔吐の沼から抜け出すことは辛く、苦しく、困難でした。ただ、前回の摂食障害との違いは、過食嘔吐をする理由。前までは吐くことをストレス発散として使ったり、言葉にならない辛さの表現方法として使っていたのですが、今回はただただこれ以上体重を増やしたくないの一心でした。


今の旦那には、自分の育った環境や離婚や持病、今ぐらつきながらも乗り越えようとしている摂食障害のことも全て話をしました。誰かに期待をして、自分のことを打ち明けるのはとても体力がいることです。そしてきっと受け入れる側にもそれ相応の負荷をかけることだと思っています。幸い、今のパートナーのように”私がどうしたら健やかでいられるか”を最優先に考えてくれる人に出会うことができました。「なんだ、ハッピーエンドかよ」と思うかもしれませんが、パートナーシップこそ本当に難しくて私のこれからの課題だと感じています。


「幸せな状態を信じきれない」「不確定な未来を想像して不安になる」「常に不満や不安について考えて深ぼってしまう」というのは、面倒な私の人間関係の癖です。”穏やかで平和な幸せ”というものを体感せず育ってきたので、強い刺激でしか快楽を感じることができないのです。カウンセラーには「幸せに慣れていない」と言われたのですが、確かに幸せがどんなものか、他人軸で生きてきた私には、うまく説明することができません。小さくじわじわと感じるあったかいものに、まだ拒否反応があるのかもしれません。


「20代のうちに結婚」とか「30歳までに一人目よね」とか、そんな世間の言葉に怯えて不安を増幅させているのも事実です。私自身、摂食障害の後遺症で無月経と多嚢胞生卵巣症候群の症状があり、不妊治療をしなければ子供を授かることができません。子供が欲しいのか欲しくないのか、その先にできるのかできないのか、その先に育てられるのか育てられないのか、きっと誰にもわからないことを考えては、不安で泣いてしまう日がたくさんあります。


1年間をひとつのnoteで書くのには限界があるのでかなり割愛をしましたが、ここ1年弱の私と今の等身大の私を記録に残します。


これからは、摂食障害のことはもちろん、双極性障害やADHD、精神疾患を持って働くこと、そして今私が直面している女性の生き方の多様性についてゆるゆると発信したいです。体調を見ながら、家庭を大切にしながら、仕事をしながらのことになるので、頑張りすぎず、好きなように発信したいことを発信します。


この1年間、本っっっっ当〜〜〜〜〜〜に生きづらかった!!!!!でも人生は終わってくれなかったんです、幸か不幸か。30歳で死ぬつもりが、結婚をして「あと50年生きろ」と言われました。そして、こんなに生きづらいんだったらコンテンツにしてやろうじゃないか、と鬱抜けしたタイミングで書いてみたわけです。


長くなりましたが、読んでくれた方はありがとうございました。この1年弱、どう過ごしていましたか?どうか皆さん、これからまた、よろしくお願いします。


竹口和香

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