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No.267【何のために今話しているのか?お互い共通認識がないと噛み合わないのはは当たり前】

私は、よく「他人の話を聞かない」、「協調性がない」と指摘される。
自覚は無いが、そういうところもあるのだろう。

ただ、私の方にばかり落ち度があるのだろうか?

《誤解されがちな議論と対話の違い》という記事を読んで、会話の相手やその周囲が、馴れ合いや協調性を重んじ過ぎるが故の「脇本は他人の話を聞かない」や「脇本は協調性がない」との指摘につながっているのではないかと、認識を新たにできました。

以下、《誤解されがちな議論と対話の違い》から抜粋する。

対話は雑談・討論・議論などと混同されやすい。「対話=とりあえず話す」ことになってはいないだろうか?議論などとの違いを踏まえ、今一度「対話とは何か」ということに立ち返ってみたい。

簡単な回答としては、
「雑談」はお互いの印象を良くするもの
「討論」はどの主張が正しいかを決めるもの
「議論」は意思決定などの着地を決めるもの
「対話」はお互いの前提や意見の違いをわかり合おうとするもの
という違いがあると言える。

意見が違うということは、違う前提に立っていたり大切にしたいものが違っていたりするはず。だからこそ「どうしてそう思っているのか」を分かろうとすることが対話においては大切にされる。

最も理想的であるのは、お互いの意見を交わす上で、2人が共通の前提に立てるような新しい意味づけが生まれること。これが創造的対話と呼ばれるものである。

ここからは〈私見〉
ところで、いつまでも対話をしてばかりでは、組織の意思決定は図られない。

対話の次は議論である。意見が全く正反対であれば、それはやがて激しい討議となろう。

それでも、お互いに譲れないとなれば、最終的には、賛否を明らかにして採決に関わる人に向けて自分の方が正しいので賛同して欲しいと一度ずつ討論を行い。採決(多数決)で是非を決定する。

但し、民主主義とは多数決ではない。話し合いで解決できない際の最後の手段が多数決であると私は認識している。


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