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発言を控えない。「戦争と平和」だが、ぼくらの在り方についてだ。

 この1か月間、やられっぱなし。幼児のころはとも角、これで死ぬのかの思いで、ベッドに縛り付けられた。いや、動くに動けないのだ。一気に「最晩年」が襲ってきた。身につまされて人生の最後を思った。
 コロナがきっかけとは近所の医者の言。家に来てすぐに救急車だった。合併症を起こし、ひどい肺炎、気管支炎で、唾液が通らない3日3晩、まことに生きた心地がしなかった。それにしても、病室担当者たちの、昼夜を問わずの看護、その支えには驚かざるを得なかった。これほどつらい仕事を、すこしも不快な表情もなく、明るく対応してくれるなんて。退院した今でも、感謝の気持ちが起こって止まない。本当に有り難いことだった。救われた。
 退院した現在はといえば、歩くこともままならず、気力が不思議なほど起こってこない。かったるいのだ。先行きは分からないが、少なくてもあとひと月はダメかと思う日々である。
 こうなると「戦争と平和」の問題に、自分ならではの発言をしておかなくてはならない。率直に一番先に頭をかすめた問題がこれであった。もう時間が残っていないのだという観念だった。だから、どうしてもこのことで思うところを述べておかなければならない。

木漏れ日のいい瞬間!

 「民主主義」という言葉が当たり前の戦後日本。少なくても民主政体の実現がはかられてきたからだろう。男女平等の選挙制度があり、それに基づいて国会があり内閣があって三権分立が確立されている。各行政機関もこうした原理にのっとり、憲法に従って国や自治体、社会や教育そして家族が成立している。だからわが日本は民主主義社会なのだと、信じられている。しかし、そういう時代でも、旧い思惑や考え方が支配的だ。
 19世紀末頃から、20世紀前半の2つの世界戦争を経験した。冷戦を経て、テロとの戦い、ロシアのウクライナ「戦争」に直面した。考えてみれば、一貫して言わらない守旧的な考え方から、どれだけ前進したのだろう。相も変わらず、先進的諸国の圧倒的多数が事態の経緯に関与し、事態を眺めているようである。
 確かに、「大衆」は、自分の身に今起こっていることでもがき苦しむ。災害時のことを思い浮かべれば分かる。だが、「戦争」についてはどうだ。少なくとも日本は、戦争に狂奔した時代があって、それに抵抗した人びとが僅かながらも実在した。言語を拒絶するほどの酷い犠牲を払い、原爆が2発落とされて、ついに降伏したのである。

災害を眼下に?(表紙は、今は撤収された東日本大震災の遺構船)


 敗戦後の日本はどうだったのか。戦前も戦後も知らんふりして通り過ぎてきたとは言えないか。大多数の人びとは、戦前にはあまり触れずに、触れさせられない体制だったと言えるかもしれないのだが、あぁでもない、こうでもないと日を送って来たのではないか。それで済むわけはないのだ。
 デモクラシーについては、古代社会、特にギリシャにおいて学んでおかねばならない歴史があるわけだ。幾多の形を生み出しながら、デモクラシー(直接民主政体)は結局衰退し、その意味が「衆愚政治」(オクラクラシーとかモボクラシーと呼ばれる)を意味するようにもなった。
 念のため少し述べておく。前5世紀~前4世紀だが、アテナイの有権者が尊敬されるに十分とされる政治的な教養を受けていたとしても、コミュニティに適切な指導者(リーダーシップ)が欠如している状況や、譲り合いに失敗し、政策が停滞したり愚かな政策が実行される状況になったら?総体としての大衆は群集性(衆愚性)を示す、という問題があるのである。
   ソクラテースが死刑になったのも大衆の選んだ道だったが、プラトンは『国家』の第8章で、「思うに、極端な自由から、最も大きく最も激しい隷属があらわれてくるようだ。」と書いた。今に至っても、何とも意味深長な厳しい見解だと思う。
 その後で、キリスト教社会が西欧を支配したことは誰でも知るところだ。デモクラシーの歩んできた長く複雑な歴史は、別にみていただくとして、17世紀になって、啓蒙主義や自由主義、社会契約論の台頭で、よく知られるところの革命が次々に起こった。
 しかし、国民による意思決定というデモクラシーは、構成員全体の意思の反映と言われても、肝心の「意志(意思)」は、自分の頭で考え抜かれたものと同じではない。
 政党の定義が生まれるが、それは利害を代表する結社のことで、有名なのは、ブルジョワ階級とかプロレタリア階級の利害に関わる名で広く支持された。今ではそう簡単に「政党」なるものを理解することはできないんだが、「宣伝」や「同調心理」に抵抗するほどのものがない点では同じといえるかも知れない、と思ったりする。

黄葉直前の銀杏の木(横浜・山下公園前)

 「宣伝や同調心理に抵抗する」と書いたのだが、これこそが真のデモクラシーの本質になっていなければならないと思う。しかし、大多数の国民にこれを求めることなどできるのだろうか。実際はどう見たらいいのだろうか。
 『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(加藤陽子著、朝日出版社、2009年)とタイトルした本があるが、世の中「選ぶ」ことから逃れることができないことを受け止めないで済むなんて、「バカ、愚か」と呼ばざるを得ないのである、正直。
 しかし、そのバカは生まれた時からのことではない。育った経緯が問題なのであって、ぼくはこれを「教育」そして「社会」ととらえる。家庭もあるしするが、例え家庭的に不幸であっても、肝心かなめなのは、社会であり、学校であり、仲間である。
 幕末、明治から拾い起こす必要がある。しかし、あえて戦後を見てみよう。すでに「冷戦」の時代。GHQやマッカーサー将軍のことは「大概」の人が知っていることだろう。
 当時米国で起き、日本にも波及したマッカーシー旋風のことはどうか。「赤狩り」である。まことに枚挙にいとまがないほどのことが次ぎ次に起こるのであるが、ぼくの思うところを聞いてほしい。

 先進的に働く頭脳には、「理想」が輝く。戦後、米国は「自由」の王国であった。しかし矛盾に満ち満ちていた。人種差別、黒人差別など、聞かれなくても分かるくらいに米国の恥部を表するものだった。一方の国、ソ連(ソヴィエト社会主義連邦共和国)は強力な報道管制があったものの、それは「西側」の侵略に対する自己防衛的なものと解され、教育、医療が無料で云々と信じて、まさに地上の楽園と夢見る人々があった。
 中華人民共和国の成立(建国宣言、1949年10月1日)には、これぞ理想の国家誕生という思いを抱いて胸躍らせた人々が少なくなかった。第2次大戦で荒れ果てた当時の世界に生きていれば無理もないものがある。
 「理想」はこうして、「理想の国家」の姿であらわれていたのである。人々はその思いに従って、対立し闘争した、と言ってよいと思う。
 こう書いてくると、このままでは収まらない。今日はここまでとするが、本論はこれからということになるであろうか。
 当然さまざまな見解があり、ぶつかり合う問題だが、何らかの役には立ちたいと思うものである。


 和久内明(長野芳明=グランパ・アキ)に連絡してみようと思われたら、電話は、090-9342-7562(担当:ながの)、メールhias@tokyo-hias.com です。ご連絡ください。
 
 
 

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