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「自立」とは強者のものではなくて、むしろ「弱者」の戦略なのではないかという話

昨日はPLANETSCLUBでこの10月からはじめた「PLANETSCLUB教養講座」の第2回、小川公代さんの講義だった。

テーマは「ケアと文学」。小川さんの講義の後に参加者でグループディスカッションを行い、その後に僕も交えた質疑応答の時間を取った。ここでの議論の焦点はキャンセルカルチャーの代表する「正しさ」の暴走に、一見、政治的な「正しさ」の権化である「ケア」の倫理がその抵抗になるのでは……という小川さんの仮説で、これはかなり大事な議論になったと思う。それはぜひ、講義のアーカイブ動画で確認してほしいのだけれど、ここで書きたいのはその中で考えたちょっと「別のこと」だ。


「弱い自立」を考えたい

結論から述べてしまえば、僕は一連の「ケアの論理」が理想的な「相互依存」を目指す一方で、それはちょっと僕には性に合わないな……というか僕はもう少し別の可能性を考えてみたい、と思ったのだ。そしてその「別の可能性」とは一言でいうと「弱い自立」のようなものだ。
「自立」と聞くと、強くて、イキっていて、シリコンバレー的で、「維新の会」的で……とか考えてしまう人も多いと思う。しかし、僕の理解は逆だ。ほんとうの「自立」というのはそういった「SNSで鼻息荒くして不安を誤魔化したい人たちのパフォーマンス」とは無関係に、むしろ「弱い」状態にある人のためのものなのではないかと思っているのだ。

そこで今日は僕なりの「(弱い)自立」のイメージについて書いてみたい。

「所有」から「関係性へ」というイデオロギー

僕が若い頃ーー10代後半や20代の頃ーー宮台真司や上野千鶴子といった社会学のスターたちが現役世代のオピニオンリーダーとして活躍していて、彼らは(ものすごく大雑把に言えば)家父長制的な「所有」ではなく、もっとフラットで、ファジーで、繊細な「関係性」を結び直し続けるモデルこそが知的で、倫理的だと主張していた。

やがて宮台真司の帯でデビューすることになる僕は「その通りだ」と感じていて、だから家長への憧れを捨てきれない(ために、それを反省の身振りをすることでむしろ再強化してしまう)ゼロ年代のポルノゲーム的なメンタリティに批判的になっていく。しかし、その一方で宮台、上野的(実はこの両者でかなり違うのだが、ここではあくまで比喩として並べる)なコミュニケーション・スキルを磨いてよい「関係性」を獲得せよいうのは、どこかマリー・アントワネットがベルサイユでパンがなければケーキを食べなさいと飢えたパリ市民に言っているように「当時の」僕には聞こえてしまっていた(今では、そのような単純な話ではないことは理解している)のも事実なのだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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