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「対話」するときはまず一度相手の話を「ただひたすら聴く」モードにならないと「もったいない」という話

昨日は、月末からはじまる新しい仕事の動画収録だった。複数の番組を収録したのだけど、特にある収録は個人的にも学びの多い、とても充実したものだったように思う。詳細は動画が公開されたらそれを観て確認して欲しいのだけれど、今日はそこで話したことをを経て、僕がその後に考えたことについて書こうと思う。それは「聴く」とはどういうことか、についての思考だ。

先に結論を書いてしまうと、僕は人間が「対話」でしっかり意見を交換し自分の考えを変化させたい(広げたい、深めたい)と考えたとき、まず最初に「聴く」側に回ってとにかく相手の言うことを無心に受け止める……というプロセスが必要だと思っている。当然、最終的にそれをどう受け止めて、評価して、応答してもいいのだけど、まずは判断を一旦保留にして相手のメッセージが何かをただ理解するべきだと思うのだ。そのとき一番邪魔になるのが「即レス」「リアルタイムのコメント」で、さらにそこに「相手に気に入られたい」とか「揚げ足を取って自分を賢く見せたい」という欲望が加わると、理解をかなり邪魔してしまう。これはとてももったいないことのように思える。

ではなぜそう考えるのか、詳しく書きたいと思う。

そもそも人間同士のコミュニケーションのかなりの部分は、「自分は敵対的な存在ではない」と相手に確認してもらうことに用いられている。たとえば日々のLINEの交換で、実際に「寒い」とか「お腹空いた」とか「だるい」ことを相手に伝えたいかといえば、そうでもないはずだ。より重要なのは「自分はあなたに対してこうしたなんでもない感情を共有したいと思うくらい、親しみを感じています」という気持ちをカジュアルに伝えること、のはずだ(北田暁大のいう「つながりの社会性」)。

これを可視化したのがFacebookやXでの「いいね」なのだが、このコミュニケーションは本質的に「自分と相手は〈同じ〉存在である」ことを、正確には交通項を含む存在であることを確認して、「安心」するためのものだと思う。このとき人間はその安心と引き換えに、「他者」と出会う機会を喪失する。

……こう書いてしまうと大仰なので、平易に言い換えるとこのような承認の交換は異質なものと出会って、それが心に侵入して、自分が否応なく変わってしまう、という体験から人間を遠ざけてしまうのだ。

要するに、自分にはないものを他の人や物事から吸収して自分の考えを広げたり深めたりするときに、お互いを認め合うサイン交換するコミュニケーションは邪魔になってしまう(話の「中身」が二の次になってしまう)のだ。

もちろん、継続的な関係のためには承認の交換も必要、というか少なくとも「効率的な」方法ではあるはずで、その副作用は大きいが選択肢から除外する必要もないと僕は思う。では、具体的にどうしたらいいのか。

僕考えではそこで重要なのが一回「とにかく聴く」側に回ることだ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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