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「(必要悪としての)飲みニケーション」という「負の連鎖」を断ち切るための考察と提案

ご存知の人も多いと思うが僕は世界で一番「飲み会」が嫌いだ。もちろん、すべての「飲み会」がダメだとかいうつもりはまったくない。しかし特にオーナーや経営者や管理職が立場の弱い人間、つまり社員などに囲まれて気持ち良くなるタイプの「飲み会」ほど醜悪なものはないと思っている(こういうのが「いい」と思っている人間が、美や正義や平和を語るのを、僕はまったく信用できない)。

かつて僕がかつてかかわっていた批評や思想の世界では、いまだにこの種の「昭和飲み会」が横行し、ボスの機嫌を取るために取り巻きがボスの敵の悪口を言い、ボスは適度にその「敵」(集団リンチの対象)を設定し、時折その「敵」を設定し直すことで共同体を盛り上げる(「敵」を更新し続けることとで求心力が維持される)。それが動画配信され、読者も「イジメ」の快楽を共有する……。まさにこの国の一番ダメなところを煮詰めたような文化で、僕はこの醜さにウンザリしてこの種の人間関係とは距離を置いた。だから僕はもう10年くらい業界の飲み会の類には基本的に行っていないし、自分も開かない。

そして更にたちが悪いのはこの種の醜悪な昭和飲み会文化が、よく「酒は社会の潤滑油」だと、つまり「必要悪」だからと(主に年長の男性によって)正当化されることだ。これは要するに「行かないと損だ」と若い人を脅しているのと同じで、僕は軽蔑しか感じない。それはただの「強者の論理」で、優生学的に強姦を正当化する論理と変わらない。しかしまあ、体育会系のマッチョなホモソーシャルで生きていて、それ以外の選択肢があまり考えられない人や、狭い世界のボスとしてチヤホヤされていないと精神が安定しない人は、無自覚にこうしたことを口走ってしまうのかもしれない。

僕の考えはシンプルで、イヤな「飲み会」は堂々と断れる社会をつくるべきだし、「飲み」に行かないと不利になるような職場は、評価経済的に軽蔑されるべきだというものだ。繰り返すが僕は飲料としての「酒」や「飲み会」そのものには単に関心がなく、批判していない。しかしそこにこびりついた昭和的な「同調圧力」やイジメ的な共同体運営の問題は、いま一番この国が克服しないといけないことだと思う。そしてそれが「世間」というものだ、と開き直る言説は基本的に既得権益者しか「幸せ」にしない。

しかし僕が今日問題にしたいのは、こういう人たちが「終わっている」という自明のことではない。僕が注目したいのはこうした「昭和飲み会」のような弱い立場の、しかし多くの人が「嫌だ」と思っていることが生き残っていくそのメカニズムの方だ。

この問題について考えるとき、参考になるのが「ネトウヨ」のメンタリティだ。よく「豚が肉屋を支持する」と揶揄されるように、再分配に消極的な保守勢力を経済的な弱者たちが、「自分は弱くない」「自分は賢い」「自分は自立している」と自己に言い聞かせて、実態のない「強い自分」のイメージを消費するために支持してしまう、という現象だ。

そしてもう一つこの種の「世間」をめぐる議論でよく見え隠れするのが「私が我慢したのだから、あなたも我慢しなさい」という年長世代の若い世代への抑圧だ。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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