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『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』と「性欲」の問題

 週明けに座談会があるので、『機動戦士ガンダムSEED FREEDOM』を観てきた。上映が終わって、劇場が明るくなった瞬間「愛のある失笑」が劇場を包み込んだ。愛される作品としてはものすごく、成功していると思った。

 ……といった具合なので、作品そのものについては予想通りあまり語るべきことはないのだけれども、初代『SEED』から22年、『SEED DESTINY』を経て本作に至る上での観客の側の変化というか、国内の商業アニメーションをめぐる状況を考える上では、本作は意外と重要な作品になるような気がするので、その視点から考えてみたいと思う。

 まずは、内容を簡単に紹介しよう。一応ネタバレが嫌な人は観賞後に読むとよいと思うが、まあ、とりあえず物語はあまり気にしなくてよいと思う。

 前々作、前作同様に本作でも相変わらずニコ論壇やアベプラやNewsPicksのコメント欄に常駐している人に0.8をかけたくらいの知性の登場人物たちが、学級会のような議論ゴッコをしながらケンカしている……みたいな感じなのだけれど、今回はそれに加えて、登場人物の行動原理が基本的に「性欲」になっている。
 これはまあ、少年の成長欲求、特に男性性の擬似的な快楽を提供してきたのが日本的な「乗り込む」ロボットアニメなのだから、ある意味直球のアプローチだと思う。

 具体的にはいつの間にか完全にキラの舎弟と化していたシンはルナマリアと付き合いながらも「先輩が望むならオレはいつでも……」的な感じでキラへの欲望を包み隠そうとせず、そのキラはラクスとの倦怠期に悩み、アスランはカガリを遠距離でキープしながらも要所要所でキラの「本妻」はあくまで自分であるのだというアピールを忘れない。そこにキラに猛アタックをかける桑島法子(今回は死なない)とか、ラクスをストーキングする陰キャといった新キャラ勢が絡み、若者たちの無軌道な性が(モビルスーツ戦というかたちで)描かれる。

 さて、ここで僕が問題にしたいのはこの映画がどれくらい「ネタ」として制作されているかという問題だ。実はこれはかなり複雑な問題だ。劇場の反応を見る限り、観客のかなりの割合はこの映画をゲラゲラ笑いながら観たと思われる。

 しかしSNSの反応を見ると、特に終盤の明らかに笑いを狙ったと思われるシーンに反発を覚えた旧作からのファンも少なくない。具体的には今回の「相手の思考を読む」能力を持つ敵に対しアスランがカガリとのセックスを思い出して混乱させるシーンや、その敵たちがシンの心の闇を覗いた結果ステラの亡霊に逆襲されるシーンのことだ(断っておくが、誇張ではなく本当にこうしたシーンがある)。たしかに放映当時、ステラの死に涙した当時の中学生たちは、こうしたシーンは不愉快に感じるだろうと思う。

 このように福田己津央監督以下のスタッフは、このシリーズが最初のTVシリーズから20年以上経って、インターネット上の「ミーム」的に消費されていることを前提に、ある程度自ら「ネタ」を仕込みに入ったことは疑いようがない。そしてこれは20年という時間が作り手と観客の双方を変化させた結果として生まれた(可能になった)アプローチだろう。
 しかしその一方で、この登場人物のほとんどが恋愛(というかセックス)のことしか考えておらず、その結果として核ミサイルをはじめとする戦略兵器が乱発されて2時間でモブキャラが数十万単位で死亡する展開は、どこまで「ネタ」として描いているのかは、かなり際どいものがあると思う。僕はおそらく、描写レベルではともかく物語展開そのものは割と真剣に描かれたのではないかと思っている。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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