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『パッキパキ北京』と「消費」の問題

昨日、夜に時間が出来たので綿矢の新作『パッキパキ北京』を面白くて一気読みしてしまったのだけど、その後しばらくいろいろと考えてしまった。何を考えたのか。結果的にだろうがこの小説はある「仮想敵」を設定していて、そしてそこに巧みにアプローチしてユニークな物語を構築するその一方で、別の問題を浮上させてしまっているように思える(ために、重要な作品だと思う)のだ。

結論から先に書いてしまえば、この小説は戦後日本の、一見マイルドで、しかしその無自覚さが悪質この上ない草食系の家父長制のようなもの(近年の村上春樹に顕著な、「強い父」を志向しない自分は無罪だと主張しながら自分より「弱い女性」を所有したがる例のアレ)が要求する、肥大した「母」像を軽やかに拒否している作品「でも」ある。ここはおそらく、女性だけではなく現役世代の男性にも大きく共感されるビジョンだと思うのだけれど、その上で物語の語り手(主人公)が、では、過去のモデルをさくっと葬った後に、自分がどうするのか……みたいな部分に、もう少し別の問題が顔を出しているように思うのだ。

『パッキパキ北京』はいわゆる「駐在妻」の主人公が、夫の要求に従って赴任先の北京に移住し、日本のバブル後継機の時代にも似た北京のモードを満喫する、という物語だ。僕が気になったのは物語の結末だ。主人公の二十歳の年上の夫(エリートサラリーマン)は、主人公にいま子供をつくることに同意しなければ離婚だと告げ、主人公はじゃあ、それで結構ですと言わんばかりにあっさりと離婚して、帰国することを選択する。なかなか小気味よい展開なのだけれど、読み終えた後、この主人公の消費社会にエンパワーメントされて性愛市場でのみ昭和オヤジと対等に渡り合う……というモデルは、80年代の上野千鶴子みたいだな……と思ったのだ僕はこのあたりの議論に明るくないので、割り引いて受け取って欲しいのだけれど、真面目に考えるとちょっと脆弱なモデルじゃないかとも思ったのだ。

もちろん、綿矢はこの結末をアイロニカルに書いている。つまり「これが答えだ」と提示しているというよりは、今日の北京という都市の強さと空虚さの入り混じったモードを描くために、この従来の主人公よりはやや強面の女性を配置した……という作為はよく分かる。分かるからこそ、ではアイロニカルにではなく、もっと正面から「答え」を探したらどうなるのか、と僕は思ったのだ。

たぶん『勝手にふるえてろ』『私をくいとめて』といった綿矢の代表作に、僕は煮え切らないものを感じていて、

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