見出し画像

この2年間、いろいろなことにウンザリして業界から距離を取り、コツコツと本を書いていたことについて

今週の木曜日(10月20日)に、僕がこの2年間コツコツ書いてきた本が発売になる。タイトルは『砂漠と異人たち』、これだけ聞いてもサッパリ何の本か、分からないと思う。昨今のトレンドからすると「○○日で○○が身につく』といった「効用」を主張するタイトルや、あるいはSNSで他人に「これはいかがなものか」と石を投げることで自分を賢く見せたい人の材料になりそうな『(あまり知力のない人でも叩けそうな、いかがなもの)』とかを露悪的にタイトルにするほうがいいのだろうけれど、僕はあまりそういうのは好きじゃないので、このタイトルにした。

では、どんな内容かというと、それは現代の情報技術と人間との付き合い方を考えた本だ。ピーター・ティールという人物を僕はあまり好きになれないのだけど、彼が『空飛ぶクルマがほしかったのに、手にしたのは140文字だ』という言葉で表したかった、この情報技術への「いいんだけど、なんか違う」感じとそれに結びついた情報社会の閉塞感はよく分かる。

今日における情報とは、要するにポルノとかドラッグの類だ。未知のウィルスに対する時間をかけた試行錯誤に耐えられない人のために「コロナはただの風邪」といった言説が提供される。誰かにダメ出しすることで、自分を相対的に持ち上げたい人のために離婚や破産といった個人の失敗の情報が提供される。

そして今日の情報社会では、そのポルノの快楽は自らが発信者になることで、何倍にも膨れ上がる。自分が安心するために、コンプレックスを解消するために摂取した情報を、今日のユーザーは再発信する。その再発信が、ほんの少しでも誰かに認められたら……「いいね」や「リツイート」をされたりしたら、人間は承認欲求を満たすことができる。それも、タイムラインの潮目を読み、予めある程度の支持者がいることを確認した上でその「意見」を投票すれば、かんたんに「みんな」の「仲間」に入ることができる。

そう、言ってしまえばこの情報社会は、具体的にはSNSのプラットフォームが支配的になってからのこの情報社会はユーザー全員がプレイする相互評価のゲームのようなものだ。誰もが情報の発信能力をもち、そして多かれ少なかれ他のプレイヤーからの評価を獲得したいと考えている。そして、こうなると効率的に評価を獲得するためにはまず、既に多くの人が話題にしていることに言及し、そしてその言及の内容は既に支配的な意見に対する賛成か反対かを、なるべく扇情的に述べることになる。このとき、ほぼSNS上の言論は機能しなくなる。そこでは問題解決の方法や、問題そのものの問い直しではなく、この問題にどう反応すれば効率よく座布団を稼ぐことができるかという大喜利が行われることになる。そしてこの相互評価のゲームは政治、経済的に応用されて久しい(少なくともドナルド・トランプを大統領に押し上げる程度には、このゲームの攻略法は2016年の時点で確立されていたはずだ)。・

では、どうするのかーー。それを、「メディアからプラットフォームへ」の流れに介入することで改善すること(インターネットを「遅く」使うためのメディア的なアプローチ)を提案したのが前著『遅いインターネット』だった。この本は2020年の2月に発売された。そう、コロナ・ショックがまさに世界を震撼させ始めたころだ。

あれから2年半、僕はコロナ・ショックを前にインターネットを「遅く」使うだけではなく、さらに踏み込んでこの問題を考える必要があると感じていた。インターネットを「遅く」使うことを提案するメディアと運動の立ち上げは処方箋としては良いと今でも思っている。しかし、それと同じくらい、僕は僕たちが情報に対してもっとしっかりとした免疫をつけるための知恵、そのための現代的な人間観のようなものを提示したい、なんて大それたことを考えるようになった。

たとえば、新型コロナウィルスワクチンについてのデマや陰謀論が流布したとき、そのデマや陰謀論を検証して、あんなものはインチキだ、神話に過ぎないと「論破」しようとするか、それとも嘘でもデタラメでもいいからああいったものを「信じたく」なってしまうのはなぜかと考えるかの二通りのアプローチがあったとき、僕は後者のアプローチの方に興味がある。『遅いインターネット』は僕の本にしては珍しく、前者に近い立場から書かれているし、僕がこの2年間MCを努めてきた、NHKの『フェイクバスターズ』もそうだ。しかし、この『砂漠と異人たち』は後者の立場から書かれている。人間が、不安を情報で埋めようとするのはなぜか。情報技術に支援された相互評価のゲームを用いて、人々が承認の交換を求めるのはなぜか。そういった問題を考えたのがこの『砂漠と異人たち』だ。

そして、僕はこの問題をどちらかと言えば最新の事例や研究ではなく、20世紀の知性を参照することで考えている。ハンナ・アーレント、コリン・ウィルソン、吉本隆明、三島由紀夫……目次にはいろいろな固有名詞が登場するが、主に対象となるのは20世紀前半と後半をそれぞれこの本で代表させた二人の人物だ。僕がこの本で、20世紀の後半を代表させたのは村上春樹だ。彼の、特に近作の決して洗練されているとは言えない自己模倣の迷路と、僕たちの「こんなはずじゃなかった」情報社会の問題は根底で深くつながっていると僕は考えているからだ。

では、20世紀前半を代表させたのは誰か? その前にこの文章に目を通して欲しい。

〈プロパガンダの一部は大衆に関わっている。大衆の気持ちを戦闘で功績を挙げるのにふさわしくなるまで調整することであり、変わりやすい大衆の気持ちを一定の目的に前もって振り向けることだ。また、一部は個人に関わる。そのときには、プロパガンダは、意図的な感動を引き起こすことで心のゆるやかな論理的順序を超越し、人間味のある好意というめったにないわざとなる。それは戦術よりも油断がならず、より実行する値打ちがある。なぜなら、それは制御不可能なもの、直接には指揮できない対象を扱っているからだ。(中略)敵の心も、手が届く限りは調整しなくてはならない。そして銃後で我々を支えているほかの人々の心もだ。戦闘の半ば以上は、後方で起こっているからだ。さらに結果がどうなるか待っている敵国民の心も、そして注目している中立国民のそれも……〉

これは3ヶ月前に書かれた、ロシア・ウクライナ戦争におけるゼレンスキーのプロパガンダ戦略について分析した文章……ではない。およそ100年前、第一次世界大戦が終結した少し後くらいに書かれた文章だ。当時は欧米を中心に、新聞とニュース映画、そしてここに新しく生まれたラジオを加え、急速にメディアの社会に対する影響力が増大していった時代だった。そしてこの文章を書いた人物は、このような情報環境の変化を前提に軍事行動のためのプロパガンダではなく、むしろプロパガンダの「ための」軍事行動を主張していた。彼は一貫して現代戦においては敵味方の、そして中立国の大衆に対する印象操作こそがもっとも効率的な戦略となると考え、そのためのゲリラ戦を展開し大きな(と、報じられる)戦果を上げた。彼の戦略はその後の八路軍やベトコンに踏襲され、非対称戦の手本となった。彼の名はトマス・エドワード・ロレンス。「アラビアのロレンス」の通り名で知られるこの人物が、この本のもうひとりの主人公だ。

いったいなぜ、いま「アラビアのロレンス」なのかと目が点になった人も多いだろう。しかしそこには当然、僕なりの必然がある。その必然こそが、この本の肝になっているので、そこはぜひ読んで確かめて欲しい。

実はこの2年間、僕はこの本を書きながらロレンスのことばかり考えていた。僕は軍事的英雄(と、演出された存在)としてのロレンスには興味がない。僕が興味を抱いたのは、このいわゆるロスト・ジェネレーションにあたるイギリス人男性の、今風に言えば「こじれにこじれきった」精神だ。ロレンスは、母国イギリスのエスタブリッシュメントの世界に馴染めず考古学者の卵として中東にその居場所を求めた。そして結果的に、世界大戦下の中東で「アラビアのロレンス」として歴史の当事者になってしまった。ロレンスは何を求め、そのためにどう振る舞い、そしてどこで間違えたのか。このロレンスの軌跡について現代の視点から考え直すことが、21世紀の情報社会を生きる僕たちの最大の手がかりになる……。これは、そんな本だ。

一見、とっつきにくく思うかもしれないが、そこは僕の他の本ーーたとえば『遅いインターネット』や『水曜日は働かない』のように面白く読めるための工夫を、それもかなり大胆に仕掛けてある。その意味では、これはものすごく変わった本になっている。実はそこがどう読まれるか、不安でもあったのだけど先にゲラを読んだ人たちからは概ね、というか予想外に好評なのでほっとしている。なので、楽しみにしておいて欲しい。

実は僕はこの2年間、いろいろなことにウンザリとしていた。

特に、インターネット上の言論空間には心底失望していた。もちろん、僕も当事者の一人だから、自分の無力さにも失望した。僕が「遅いインターネット」を提唱しても、世界はコロナ禍やウクライナの戦争を背景にその「速さ」を増していった。気がつけば、事実上無内容な「論破」パフォーマンスが言論シーンの主力商品となり、粗製乱造されるオンライントークショーの類では観客の受けを取りたい登壇者と、コメントすることで承認欲求を満たしたい観客の共犯関係がその無内容さを支えていった(オンラインイベント症候群)。自称「分断に抗う」メディアが、そのような単にその場にいない同業者の(ときに事実に基づかない)悪口を中継し、コメント欄で一緒に叩いて盛り上がるようなイジメの場を「ネット時代の新しい言論空間」と持て囃していたりするのを眺めていて、もうこの国の言論界に自分の居場所なないのかもしれない、と落ち込んだりもした。

ここ数年でSNSでの政治的な発言をポルノ的に消費させるビジネスが、悪い意味で洗練されてしまった。特に強い側、勝った側に共感している自分は強い勝ち組だと思い込みたいコンプレックス層を気持ちよくさせて課金させるために、とりあえず今の日本で劣勢なリベラルや左派勢力を、コケにするやり口が定石と化してしまったことには強い危惧を覚える。中には、叩きたい対象の発言を捏造したり、尾ひれをつけてデマを拡散する悪質な言論人やメディアも少なくない。僕はいまのこの国の左派勢力が健全で賢い批判勢力だとはまったく考えていない。しかし、このような言論ポルノが定着してしまったことによって、この国の言論空間はいよいよその機能を停止しつつあるとすら、僕は思う。僕は、日本のトランプ現象を引き起こすとしたら、ニコ論壇やAbemaなどのこの種の言論ポルノを主力商品にするネットビジネスからではないかと考えている。

個人的にも、充実していたけれど辛いことも多い2年間だった。コロナ禍でうまくいかなくなった仕事もあったし、信用していた人に裏切られるようなこともあった。特に辛かったのは、オンラインサロンのスタンドで私塾を開いていることを、不当に批難されたことだ。僕が主催するPLANETSCLUBは、勉強会や読書会を中心としたサークルなのだけど、オンラインサロンという言葉のイメージの悪さ(実際に胡散臭いものも多い)を利用して、長年僕に嫌がらせをを続けている人やその取り巻きから、僕のやっていることを悪意を持って中傷されたことが何度もあった。

この2年間、僕は不毛なTwitter論壇からも、このような嫌がらせの横行する陰湿な業界からも距離を置いて、コツコツと本を書き、本をつくることに没頭した。その中で、もっとも充実した時間がロレンスについて考えている時間だった。ロレンスは、自分の魂が解放される場所を求めて砂漠に赴いた。しかし、失敗した。だから、ということでもないのだが僕はどこにも行かずに、この場所で自分の時間を、砂漠を見つけて、そしてそのことに集中して「世間(僕のいちばん嫌いな言葉だ)」から距離を置き、タイムラインの潮目から自立することを試みた。そのような時間の結晶が、この『砂漠と異人たち』という本だ。もし、あなたがこのインターネットに疑問を持つならば、こんなはずじゃなかった、もっといいかたちがあるんじゃないか、そしてそのために、人間一人一人が何ができるのか、どうあるべきか……そんなことを考えたくなった瞬間があるのなら、きっとこの本は思考の手助けになると思う。


僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。