見出し画像

これからのアニメーションに必要なのは「ロボット」や「美少女」といった「戦後的な」キャラクター「ではない」ものなのではないかという仮説

先週末は金沢の21世紀美術館にて、『機動警察パトレイバー2 hte Movie』上映会のトークセッションにゲストとして出席してきた。そこで話す予定だったことは直前に更新したnoteにまとめている。

ここで書いたこと、そしてその背景にある2018年に僕が押井守に行ったインタビューで押井が述べたことを端的に要約すれば、押井守が『イノセンス』以降に身体を主題にするようになったのは、情報環境の変化によって劇映画という形式の力が低下したから、ということだ。つまり現代では柘植=押井による「戦争という状況を演出すること」(=パトレイバー2)という「テロ」(=映画)が日常性を遮断し、異化できる時間は当時(1993年)に比べて短くなっている。優しく言い換えればインターネット以降、タイムラインの潮目の変わる速度は上がる一方で、その度にテロリズム/映像が日常性を遮断できる時間は短くなっているのではないか、ということだ。

そして今日これから書くことは、結論から述べてしまえば今、有効に日常を遮断し、正しく人間を傷つけることのできる回路は映像ではなく、そこで描かれているキャラクターなのかもしれない、ということだ。それも、戦後日本的な「矮小な父性」を仮初めの身体で拡張してくれる(操縦する)ロボットでもなければ、そんな家長崩れの自意識を慰めてくれる「萌え」系の美少女でも「ない」キャラクターが必要なのではないか、というものだ。

以下、その理由を書いていこうと思う。

押井守は僕の行なったインタビューで、「映像」が「動画」に変貌したとき、つまり日常的なコミュニケーション・ツールになったとき、その批判力は大きく低下したことを認める。では、私たちの日常性を破壊し、内省を促すものは何か。僕は情報のレベルで考え続けて「遅い」インターネットが必要だとこの頃から主張し始めたのだけれど、押井守は「身体」だというのだ。

押井守曰く、日常性というのは実は政治的に構築されたものに過ぎない。これはこの国の長すぎた戦後と呼ばれたあの時代に、終身雇用や専業主婦といった文化を「当たり前」のことだと僕たちが思い込んでいたこと、そして当時を生きた人間にはその「当たり前」が恒常性の維持のために大きな役割を果たしていたことを思い出せば、すぐに理解できるはずだ。そしてこれに抗う唯一(?)の根拠が身体だというのだ。

ここから先は

1,570字
僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

僕と僕のメディア「PLANETS」は読者のみなさんの直接的なサポートで支えられています。このノートもそのうちの一つです。面白かったなと思ってくれた分だけサポートしてもらえるとより長く、続けられるしそれ以上にちゃんと読者に届いているんだなと思えて、なんというかやる気がでます。