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枠のない人

これからの生活スタイルについて、何でも話し合える友人Mがいる。

お互い母になる前からの付き合いだけれど、Mの一人息子が私の長女と2か月しか変わらないこともあって、何かと子育ての話もよくする。でも、母としての話題よりも、おしゃべりの内容はほとんど、個としての話。お互いにあまり、「こうじゃないとダメ」というのがあまりない人間。「この話、この人にしてもいいかな」という躊躇を全くしなくてもいい、自然体で何でも話せる、有難い友人だ。

どういう訳か同じような時期に、同じようなことに関心を持つことが多い。「いま、こんなんハマってんねん」私が色々とやってくるマイブームを打ち明けると、向こうも何やら同じようなことに目覚めていることを知って、不思議に思うこともある。

そのMがこの秋、いまの職場を離れる決断をした。育休復帰の後、あまりにも時間に追われる生活を続けて、これは私がしたい暮らしではない、もっと違う生き方や働き方があると気が付いたらしい。

先日、Mはたまたま廊下で、以前同じ部署で働いていた元上司と顔を合わせ、その時に「実は退職を考えている…」と伝えたのだそう。ほんの2、3分の立ち話だったけれど、元上司はその判断については訝しげな様子で「ラクするのはいつでもできるから」という趣旨の感想をくれたのだそう。

その上司は3人の子供を育てるお母さんで、M曰く、「これまで働いてきた中で色んな上司に出会ってきたけれど、その人はリーダーとしてチームを活気だたせる、信頼のおける素敵な人」なのだという。だからこそ、その反応はMの心をザラっと撫でた。

果たして、「ラクすること=いけないこと」「時間に追われて必死に働くこと=正しいこと」なのか。はたまた、「違う生き方を模索すること=ラクすること」なのか。敬愛してきた上司の言葉だからこそ、その人の物差しにちょっとガッカリして、決断は変わらないけれど、ちょっと気持ちが揺れたのだという。

人が持っている「枠」というのは言葉の端々にひょっこり現れる。仕事では同じ価値観を共有して、居心地よく一緒に働くことができたけれど、生き方となると、どうやら違う考え方を持っていた。「私が上司のイメージを勝手に作り上げて、勝手にガッカリして、向こうには迷惑な話かもね。」Mはそう結論付けていた。

変化より現状維持、動くより安定、それは人間が本能的にどうしても安全だと、身を守るために必要だと思ってしまう感覚なのだろう。私にだってあるし、だからこそ一歩踏み出すのは誰にだって勇気のいる行動なのだ。

だけど、その「ちょっと怖いな」をワクワクする気持ちが上回った時、「何かちょっと違う景色も見てみたいな」の好奇心が抑えられなくなった時、私たちはもう既に、それまでの生き方のままでいることは苦しくなってしまう。「枠」がない人というのは、そういう「心の中に生じるどんな衝動にも正直にいられる人」と言うことも出来るかな…と、ふと思う。

そう考えると、自分では自分のことを「枠」のない人間の部類だと思っているけれど、まだまだ、怖がりで守りに入ることも多い、決して「枠」を払い去った人間ではないなと思い至った、Mの話からの帰結。だけど、好きだなぁ…「枠」のない人。



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